本寺には非常に複雑な歴史がある。
本寺の前身は当時の武射郡松ケ谷村(成東町松ケ谷字川代(かわしろ))にある真言宗の寺院珠宝山蓮台寺である。蓮台寺は南北朝時代の文和(ぶんな)二年(一三五三、北朝の年号、南朝では正平八年)真言宗の僧都看祥が開山となって山辺郡川代村に創建した寺である。その後、寛正年間(一四六〇-六)に火災にあい間もなく復興した。しかるに、それから一三五年後、長享二年(一四八八)に酒井定隆による改宗令が出されたため、当時の住僧澄融はこれに抵抗して改宗を避けるため、松之郷に移転して願成就寺と改称したが、それでもなお改宗を迫られるので、更に下武射田村八幡前に寺を移すことにした。(この移転の際には、「豊成村沿革誌」によると「帰依ノ僧俗ヲ率ヰテ」とある。そうすると、一般の信者までも移動したことになる。)ところが、幸いなことに、酒井氏の領外であった松ケ谷村に河野大学という豪士がいて、非常に同情を表し、自己所有の土地と家屋を寄進して、寺をここに遷移せしめ、土地の名を寺の旧地たる名をとって川代と名づけ、また寺の名も旧称の蓮台寺に復するようにしたのである。これが、改宗令の出た年の翌年延徳元年(一四八九)三月のこと(「豊成村沿革誌」には「四月十三日」とある。)であった。同寺は天正一九年(一五九一)徳川家康から寺領五石の寄進を受け、また、安永八年(一七七九)安養院の号を加えられ、現在は京都醍醐院の末派として中本寺の地位を得ている。なお、同寺に安置されている仏像は皆有名な運慶の作であるといわれる。
こうして蓮台寺は改宗令の施風をのがれ、酒井氏領外に移って身の安泰を保ったわけであるが、その後身として、法華宗に改宗して、宮村字(あざ)都(東金市宮字都)に再生されることになったのが長光山蓮成寺である。すなわち、改宗令の出た翌年延徳元年(一四八九)本漸寺の開基日親の法弟日朝が開山となり、この寺は建立されたのである。本寺は現在顕本法華宗に属し、本漸寺(谷)の末寺となって小本寺の格を有している。
本寺は酒井氏の七里法華政策の中で誕生した特殊な寺院であるといえる。
(この項の叙述は「山武郡郷土誌」「山武地方誌」の記事に負うところが多い。)