本寺は別項蓮成寺のところで説いておいた蓮台寺(真言宗、成東町松ケ谷)と関係が深く、蓮成寺と同様、本寺も蓮台寺の後身という感がある寺院である。蓮台寺はもと山辺郡川代村にあったが、酒井定隆の改宗令(長享二年)に追われ、松之郷に移ったが更に下武射田村八幡前に場所をかえ、重ねて武射郡松ケ谷村に遷移した。その下武射田村八幡前の寺跡に建てられたのがこの妙本寺なのである。
妙本寺
本寺の創建は蓮成寺と同年の延徳元年(一四八九)六月一三日であるといわれ、開山は本漸寺の開基日親の弟子日印である。日印は学徳ともにすぐれ、俗人に深く帰依された僧侶であったといわれる。こうして成立した本寺は、その後、場所を二度移している。最初の場所たる八幡前には八四年間いたが、天正元年(一五七三)にいたって、同村内の古屋本城というところへ移っている。なぜ移ったか。「上総国山武郡寺院明細帳」には、左のごとく記している。
「その原由たる、酒井氏の家老職古川出雲守の下屋敷たり。当時当山四世の僧日瓢、古川氏とよしみあり。故に、古屋本城を申請せり。」
しかし、「豊成村沿革誌」は、より具体的な事実を記している。
「其ノ故ハ、当時古屋本城ニ領主ノ家老職古川出雲ト云フ人ノ別業(別荘のこと)アリ。本山四世住職日飄ハ古川氏ノ疏属タルノ故ヲ以テ、同氏該別業ヲ日瓢ニ賜ヒタルニヨレリ。」
つまり、住職日瓢が家老古川出雲守と深い関係があって、別荘をもらった代償として寺を移したというのである。権力に屈したのか、それともおもねたのか、ともかく無茶なことをしたものである。この古屋本城に三七年間いて、すでに世は徳川時代に移っていたが、慶長一四年(一六〇九)また寺籍を移している。前引の「明細帳」によると、
「慶長十四年その時の諸輩協議し、古屋にては村里より場所を隔離し不便利に依り、今の上下武射田入会(いりあい)の野地へ更に地を構へ、当寺を移転す。当時六世僧日栖住職たり。その時成東(華頂山)妙行寺・嶋(長福山)本因寺に脇坊を移し立つ。それ以来今に至るまで当寺の末寺たり。」
移地の理由は、要するに古屋本城は不便であるからということになる。入会はいわば村の共有地である。時の住職は第六世日栖(せい)であった。ここへ移ってからは現在まで場所の変更はなかった。なお、妙行寺は大永元年(一五二一)の創立であるが、本因寺は不明である。