近世の塾寺子屋

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一、中央文化を吸収して育った庶民教育
 江戸時代の庶民教育が盛んになったのは、享保(一七一六-一七三五)の頃からであるが、その後、寛政年間(一七八九-一八〇〇)松平定信が将軍補佐として学問を奨励したので、漢学の塾や手習師匠の寺子屋が非常に増加し、田園に朗読する声が聞かれるほどになった。ことに我が房総地方は、江戸に近いこともあって、一層よく普及したから、寺子屋は少なくとも二、三か村に一つを数えることができた。しかし、漢学塾となると、それほど多くはなく、有名なものは数が少なかったようである。そして、実際には塾と寺子屋を兼ねたような所もあったので、判然たる区別をすることは出来ない。
 さて、寺子屋の名前は、中世の頃、寺院において僧侶が近在の子供を教育したところから起こったものだが、江戸時代になると寺院とは関係がなくなり、学問の心得のある儒者・国学者・医者・浪人・僧侶・有力な平民などが自宅で七、八歳から一四、五歳の子供を教育する学舎を指すようになった。関東では一般に、手習師匠と称していたようで、今でも「師匠様」などという屋号が残っている所がある。学科は手習を主とし、「いろは歌」「五十音」「名頭(ながしら)」「村名」「国尽(くにづくし)」「消息往来」「商売往来」「百姓往来」等を習わせ、読書には、「実語(じつご)教」「童子教」「古状揃(こじょうぞろえ)」「女今川(おんないまがわ)」「女大学」「庭訓(ていきん)往来」等の教科書を使用した。中には四書五経くらいまでの素読(そどく)をさせる所もあったようである。
 漢学塾は寺子屋の学業を終了したものを入れたので、四書五経はもちろん、史書・詩文等、指導者の得意とする所を教えた。
 ところで、東金を中心とする旧山辺郡・武射郡の地方について寺子屋や塾を考えるとき、その特徴の一つは、経営者ないし指導者に遊歴学者の多いことである。江戸時代後半より維新前後にかけて、学者・医者・文人・墨客が相次いでこの地を訪れた。これは、東金を中心とした九十九里平野は穀倉地帯として生活が豊かで富農が多かったこと、また沿岸地域は日本有数の漁業地帯だったため富有な網主がたくさんあって、彼らが学者たちの遊歴を歓迎し経済的な援助をあたえたことが大きな力となっていたようである。
 たとえば、有名な経済学者佐藤信淵(明和六年(一七六九)-嘉永三年(一八五〇)、出羽の人)は、寛政九年(一七九六)に房総に足をふみいれてから文政一一年(一八二八)頃までの間に前後三回、通算すると二十年余りも東金市大豆谷(まめざく)に寓居して著述に専念しているが、その父信季、祖父信景もこの九十九里浜の各所に滞在して漁業の指導にあたっていたのであるが、信季の著書「漁村維持法」には「予遊歴中九十九里の豊饒(ほうじょう)にして豪家多く、且つ雲游(うんゆう)の客を尊敬し、飲食も亦けっこうなるが為に、滞留三、四年、豪農の網主数十家と交れり。」と書かれていることからも、学者と九十九里地域とのつながりの深さが察せられるのである。こうしたことを取り上げて、「網主寄生の文化」(「千葉県の歴史」)と評する向きもあるが、江戸時代に城下町らしい所もなく、ほとんどが旗本の知行所であったこの地方の人々に、その土地固有の文化が育たなかったことは仕方のないことであり、かえって、江戸に近いという利点を生かし、中央の文化を吸収しようと努めたことに、われわれは目を向けなければならないと言えよう。
 このようにして、この地方を訪れた学者について概観すると、前述の佐藤信淵が東金市大豆谷に寛政から文化にかけて前後二十年余り住居を構え、著作や産業開発の指導に従事した。(佐藤信淵については、第六巻「通史篇」でくわしくのべる予定である。)
 次に挙げるべきは上総道学のことである。成東町の成東大橋のたもとに「上総道学発祥の地」なる記念碑が建てられているが、この大橋は江戸時代幕府が直轄していた。この橋の架けかえの時、朱子学者で山崎闇斎の流れを汲む稲葉迂斎(うさい)の門人たる酒井修敬が、幕府の代官野田某の手代として、成東の工事監督にやってきて、土地の若者たちに従学を奨励した。それに応じて、八人の人たちが江戸へ出て迂斎の門に入った。これがいわゆる上総八子で、次の人びとである。
  鈴木庄内(養察)(成東町姫島)
  桜木清十郎(〓(ぎん)斎)(東金市東金)
  安井武兵衛(成東町成東)
  安井半十郎(利恒)(北斎)(成東町小松)
  布留川弥右衛門(九十九里町片貝)
  鵜沢幸七郎(近義)(大網白里町清名幸谷)
  平山安左衛門(成東町早船)
  鈴木兵右衛門(松尾町折戸)
 この八子の中、姫島の鈴木庄内は姫島学舎を開き、その子養斎は黙斎の門人となり、子孫よくこの学舎を継承し、明治末年に至るまで講学を続けている。
 東金の桜木〓(ぎん)斎は、長崎聖堂の教授となり、饒田実斎などの門人を出し、著書に「弁釈或問」「長崎在勤日記」等がある。成東の安井武兵衛もまたよく学問を教え、子孫よくこれを継ぎ、子孫の中から総武本線の創設者安井理民を出している。以上の三人ばかりでなく、ほかの五人もそれぞれ自己の郷里において後進の育成につとめたのであった。さらに、迂斎の子黙斎は父以上の俊才であったが、八子の縁によって、江戸を離れて清名幸谷村(大網白里町)の鵜沢近義をたよって同村に移居し、二〇年間周辺の子弟に学問を教授したのである。これによって迂斎・黙斎のいわゆる上総道学はこの地に広く植えつけられ、健実な道徳学が多くの人たちを訓化し、永い伝統として生きつづけるようになったのである。上総道学が教育の振興につくした功は大きい。
 この他、女子教育では大網の三木ひで子が経営した静渓学館が挙げられるし、算学の方面では正気の宿に算学教授所を開いて和算を教授した五瀬是勝(宿村植松家の養子となり、英三郎と称した。)がある。以上の他、東金に高橋一庵、片貝に乾(いぬい)坤八・目黒昌言、武射田に今関琴美・松本英治郎、四天木に土岐鼎斎、屋形に広瀬史雄があり、これらの人たちは、みな、他国からこの地に到り、定住して教学に従事したのである。(上総道学および植松是勝の和算については、第六巻「通史篇」に記す予定である。)
 以上、寺子屋と塾について概観して来たが、次の項では今少し、その実態に触れてみたい。
 
二、寺子屋や塾の教育内容と実態
 先ず、次の「栗原宗茂塾」を紹介をしたい。(千葉教育史による。)
 
○栗原宗茂塾
栗原宗茂は、大和村福俵字西門の人、父五郎左衛門の代より子弟を教授して居ったが、宗茂その後を襲ひ、子弟の教授に当った。宗茂は通称を良助といひ、後大膳宗茂と改め、晩年には神官となった。塾生は、その数約六〇名を算した。入学年齢は八歳位で、入退学の時期、年齢、修業年限等には一切規程を設けず、全く父兄の自由に一任した。課業時間は、午前八時頃から午後四時頃までであった。教科目は、読書と習字で、読書教科書は、今川・庭訓往来・実語教・大学・論語・孟子・左氏伝・唐詩選・文選・国史略等であった。習字手本は、師匠の自筆のものを用ひさせた。休日は、毎月朔日、一五日、二五日および五節句(正月、三月、五月、七月、九月)であった。謝儀は、盆暮に叺(かます)(身分に応じて差異をつけた。)を持参した。罰としては、留置をなすことあり、年中行事としては、正月は特に二升叺を持参して師匠より馳走を受け、また天神講を行なった。
 今、この記述を基にして、当時の寺子屋や塾の教育内容や実態について考えてみることとする。
 
○生徒の数 「千葉県教育史」の伝える当地方の「私塾表」や「寺子屋表」をみると、生徒の数は多い所で三五〇とか八〇〇とか出ているが、これは創立以来の通算ということで、普通男子が三〇から五〇、女子がその一割程度ということであったらしい。中には、開店休業の状態の塾や寺子屋もあったということである。
 
○入学年齢 数え年の九歳で入学するのが当時の習慣であった。十歳では年が悪いということで、ほとんどが九歳の暮に入学した。中には九歳の正月天神講の日に上がったものもいたようである。
 
○修業年限 この話に伝えられるように規程はなかったが、普通六年間通うと退学した。一五歳という年齢は成人と考えられていたし、親たちが家事を託す度合いもふえて来て、一五歳退学ということになったらしい。もちろん、修業証書とか卒業証書というものは存在しなかった。
 
○学習日課 この話の通り朝食後登校して夕方下校する仕組みであった。その間、昼休みが一時間程度あったようである。
 
○教育内容と指導法 教科書は塾や寺子屋で定めたものがあったわけではなく、生徒が勝手に家にあった本を持って行って教えてもらったらしい。ただ教えてもらう順序はあったようで、三字経・実語教・今川・童子教・庭訓往来・式目・四書五経・唐詩選・左伝・蒙求・文選、別に女子用としては、女訓孝経・女庭訓往来・教草女大学、栄文庫等となっていた。習字は栗原塾では師匠自筆の手本となっているが、ほとんどの塾がこの形をとっている。中には、師匠は字が下手で、夫人に書かせたものを用いたという記録の残っている塾もある。平仮名・商売往来・千字文等を師匠の手本をもとに書かせていたのである。
 では、どんな指導法をとっていたかとなると、読み方と書き方だけであるから、簡単に思われるが、何しろ教科書は十人十色、進み方も、一年に四冊も五冊も読めるようになる力のある者から一年かかっても一冊が終わらない者までいたわけだから、とても一人の師匠が三〇人とか五〇人に一斉に教えるのは不可能に近かった。結局、上級生というか、出来のよい者が後輩に教えるという形をとった。教える者はこれによって復習することができたし、教えられる方でも早くその先輩に追いつこうとするので、合理的な指導法だったと言うことができよう。
 書き方では、師匠が自筆の手本を学習する者の力に応じて与えた。上達の速い者には何回も手本が与えられたし、一向に上達しない者には、なかなか次の手本が与えられないという状態であった。
 
○休日 今のように日曜や祝日が定められていたわけではないが、当時でも休みはあった。だいたいどの塾でも毎月一日、一五日、二八日(二五日)を休みとしていた。中には、一日、一五日の二日間だけで、月末の休日を設けていない所もあった。この他に、正月の松の内や盆の三日間、彼岸の中日、一月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日の五節句の五日間などが休日となっていた。
 
○謝礼 今なら授業料だが、五節句に白米二升叺を師匠の所へ届けるのが普通だった。中には毎月一升ということで、年に一斗二升とる所もあったし、盆や暮に銭五百文程度を徴収する所、逆に一切付け届けは受けなかった所等様々であった。正月の書初めの提出の際、作品に鏡餅を添えて出させ、師匠の所得としたという記録も残っている。
 
○懲罰 罰の最も重いものとしては、今の放校、退学処分に当たる「明日から来なくていい、文庫を背負って家へ帰れ。」という言渡しがあった。ただ、これで実際に退学した者は少なく、名主などから師匠に詑びを入れてもらい、無事におさめることが多かった。
 しかし、柱にしばりつけられた者、灸を据えられた者、片手に火のついた線香を持たされ、片手に水を満たした茶碗を持たされて、線香のなくなるまで立たされた者など数多くいたらしい。丘山地区油井(ゆい)の吹野五郎左衛門などは、「生徒の中に倦怠をきたし、悪戯をなす者を生ずれば、釣竿を振って遠くより注意を喚起」したと言う。
 友だちが帰ったあと、罰のため留置きをくうのも随分つらかったらしい。渋面を作っていると、師匠の家族とか近所の年寄とかが師匠に謝ってくれた。師匠が用事があって外出した後の塾や寺子屋は、今の教師の出張した後の教室と同じで、悪童どものさわぎが隣近所まで聞こえたらしい。また、師匠の中には、自分の家に入らず、隣家に立ち寄って、「今から私が仕置きにかかりますから、頃合いを見はからって止めに入ってくれますまいか。」と頼んでから、子供たちを叱ったという芝居がかったことをする師匠もいたということである。
 
○年中行事
 ●温習会 年の暮には、どの塾や寺子屋も「さらい読み」「さらい書き」という行事を持った。今でいう学芸会であり、後に温習会と呼ばれるようになった。全員の前で朗読、暗誦講義等を行ない、自己の技量を示したのである。
 ●書初展示会 生徒の作品を教室の周囲に飾って父兄に参観させた。これは正月の行事であり、展示は五日間程度であったが、中には天神講の日まで飾っておく所もあった。
 ●天神講 正月二五日に行なった。生徒たちは栗原塾のように二升叺(かます)を持参した所もあれば、白米を碗に一杯と銭若干出し合う所もあったが、どの塾や寺子屋でもそこの夫人あたりが中心になって御馳走を整え、御神酒を供え、師弟共にこれをいただいた後、半紙四、五枚をつないだ旗に「天満大自在威徳天神」等と書いたものをかついで、近くの天神様に参拝したのである。地区によっては今も続いている天神講は、明治の学制発布以前の教育の名残りといってよく、新しい学校体制の中では賞揚されなかったようだが、完全に土地の行事として定着したのである。
 ●七夕 天神講ほど行事として実施したという記録はないが、星祭りと習字の上達とを関連させて行なっていた所もあったらしい。
 
○しつけ 登校した時は、「お師匠さまおはようございます。」と挨拶させ、下校の際は、「お師匠様お休みなさいまし。」と両手をついて挨拶させた。昼休み以外は、終日机の前に端座して読書や習字を行なった。友だちを呼ぶときは、「○○さん」「○○殿」と必ず敬称をつけさせた。しかし、これは師匠の前だけで、家に帰ってからの遊びにまでは及ばなかったようである。
 
三、東金市域内にあった塾と寺子屋表
 今、一通り塾や寺子屋の様子にも触れたので、最後に当市域内にあった塾や寺子屋の一覧を揚げて本節のまとめとする。
 
○私塾表(※生徒数は創立以来の通計、空欄は不詳を示す)
名称 学科 所在地 開業 廃業 教師数 生徒数 塾主氏名(身分)
漢学 東金 天保九年 男 一 高橋一庵
東金 男 一 桜木誾斎
明倫堂 東金 明治二年 明治五年 男 一 ※男一〇〇 鶴岡安宅
漢学 公平 男 一 鈴木左内
漢学 公平 男 一 鈴木養斎
和漢学 松之郷 慶応元年 男 一 男 五〇 女  八 斎藤佐一(平民) 外 一人
読書習字 松之郷 男 一 栢木樵谷
読書習字 丹尾 明治六年 男 一 男 三〇 女  四 鶴岡仙造
読書習字 油井 男 一 男 二〇 女 一五 吹野五郎左衛門
俟哲庵嘉実堂 華道読書 田中 男 一 男 七〇 女 二三 熊本隆常 外 三人
漢字 福俵 男 二 男 三〇 女 二〇 金沢良睦(医師) 栗原完茂(農)
稽古所 読書習字 福俵 男 一 男 六〇 栗原完茂(神官)
巌桂堂 山口 男 一 鈴木〓作
琴氏塾 読書習字 作文 上武射田 天保初年 明治三三年 男 二 男 六九 女 四三 今関琴美(士族)
松本塾 読書習字 剣道生花 茶道 下武射田 安政六年 明治二三年 男 一 松本英治郎(農)
読書習字 前之内 男 一 関素寿

 
○寺子屋表
名称 学科 所在地 開業 廃業 教師数 生徒数 師匠氏名(身分)
松之郷 万延元年 明治五年 男 一 男 三〇 女 若干 遠山利三郎(栢子樵谷と同人)
読書習字 和算 家之子 男 一 男 四〇 女 三〇 木内健斎
読書習字 大沼田 男 一 石井兵五郎(名主)
読書習字 正気 男 一 広瀬弥吉
読書習字 正気 男 一 平山健作
読書習字 正気 男 一 古川周作
読書習字 正気 男 一 子安七郎右衛門

参考文献
 「千葉県教育史・第一巻」第七章
 「稲葉黙斎と上総道学」(「山崎闇斎と其の門流」所収)
 「千葉県の歴史」(山川出版)「房総通史」(昭34・5刊)
 「日本の歴史17・18巻」(中央公論社)
附記
右の記述に出ている人物のうち、高橋一庵・鶴岡安宅・栢子樵谷・今関琴美・関素寿については、本巻の「人物篇」にそれぞれくわしい記述がある。参照されたい。