千葉県立東金商業高等学校(旧名東金実業学校 東金高等家政女学校)

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 △東金町立東金公民学校・東金実業学校
 昭和二年(一九二七)三月二五日、東金を中心とした地域の商家、農家の子弟の教育、産業の振興地域、中堅青年の公民的資質の養成を目的として、町立東金公民学校が小倉文彦町長他有志の努力で創立された。そして、石毛千代松校長ほか三名の教員により東金町砂郷の養蚕場を改築してこれを校舎として、約五〇名の生徒により教育が開始された。
 昭和三年(一九二八)、第二代志田瞭校長を迎え、千葉県東金公民学校と改称、東金町田間に地元の協力により、新校舎が設けられ移転、昭和四八年(一九七三)まで四五年にわたるここでの教育が始まる。
 農業科・商業科の二学科で発足、以来、年を追って学校としての体裁も整い、教育内容も充実、生産実習で町役場に定期的に出向き、農業調査の計算実習を行なうなど、今日の高校教育で必要な勤労体験学習を行ない、充実した教育が実施された。
 第三代大橋主城校長は、「至誠・礼儀・規律・学芸・勤労」を校訓として教育にあたり、教育実績は向上し、昭和八年(一九三三)、全国優良校二三校の一つに選ばれ昭和一〇年(一九三五)、実業学校令により、東金実業学校に昇格することになった。教育実績は各方面に見られたが、例えばスポーツについては県下対抗競技に参加、昭和一一年(一九三六)陸上部が、翌一二年(一九三七)は剣道部がそれぞれ県大会で優勝、生徒の士気大いに揚がる。また授業面では商業教育の事務分野に当たるタイプライター実習をはじめた。
 昭和一六年(一九四一)第二次世界大戦がはじまるや、本校の教育にも大きな影響を及ぼすようになった。勤労奉国団として各種の勤労作業、授業時間の短縮、東金町の財政事情の悪化等の中、昭和一七年(一九四二)には、実業学校を廃止し、食糧増産のため、拓殖学校として農林省の管轄下におこうとする案が出された。これに対して当時の大岡保成校長は全職員とともに町当局や有志の方々の協力を得て、学校存続の運動を展開しついに廃校を免れることが出来た。
 昭和一八年(一九四三)度より従来の三年制の乙種実業学校から、五年制の甲種実業学校に昇格した。
 昭和二〇年(一九四五)、浦上達雄校長を迎え、新しい教育制度のもとに男女共学の学校として生まれ変わる。
 
 △東金町立東金高等家政女学校
 昭和七年(一九三二)、東金における女子教育について、時の農会長の篠原蔵司は、小学校卒業後の女子の家政教育を授けることの必要性を説き、東金小学校嶺南分教場の一棟を使い農会立東金家政女学校を設立し、以後五年間、自らその経営に当たった。
 昭和一二年(一九三七)、篠原校長の病気退職により、布施六郎が東京から迎えられ、理想的な女子教育の学校として、実業学校令に基づく町立東金高等家政女学校が発足、布施校長は婦人道の理念を教育方針として七年間本校発展に貢献したが、昭和一九年(一九四四)退職し、実業学校より武田顕竜が校長として迎えられ、同年、東金高等家政女学校は東金女子商業学校と改められ、新しい出発をすることになった。
 昭和二〇年(一九四五)、終戦の年、武田校長の急逝のため、岡沢潤一、鴫原篤二が続いて校長事務を担当、困難な時代の学校経営に当たる。
 
 △東金町立東金商業高等学校より千葉県立東金商業高等学校へ
 昭和二三年(一九四八)、新しい教育制度の発足に当り、町立の実業学校、女子商業学校はともに財政事情の困難から、再び廃校の危機に見舞われ、職員、生徒代表の嘆願運動の結果、両校合併の新制高校とすることが町議会で決定された。
 同年四月、五十嵐一郎校長を迎え、新しく校歌、制服を制定し、町立東金商業高校は田間の校舎で新しい商業教育を開始した。
 ところが昭和二五年(一九五〇)、県立に移管され、県下高校再編成計画により、東金高等学校(富田英夫校長)の商業課程として同校に併設され、東金高等学校商業課程と称されることとなった。
 それが昭和二八年(一九五三)四月一日、多年の念願であった独立の県立高校に上昇することができることとなり、新たに千葉県立東金商業高等学校として出発、虫明尚校長を迎え、教室の増設、校庭拡張工事等を行ない規模を整えるにいたった。
 昭和三三年(一九五八)一〇月、関英一校長の時創立三〇周年記念式典を挙行。
 昭和三五年(一九六〇)、橋本操校長の時、更に校庭の拡張と校舎の増築を行なうとともに本校生物クラブが杉崎正夫教諭の指導のもとに「ヘイケボタルの人工ふ化と養殖」の研究で、日本学生科学賞第一位入賞、総理大臣賞に輝く。続いて山口巽校長時代、県教育委員会の商業科実験学校指定を受け、商業教育に新生面を切り拓く。
 昭和四三年(一九六八)四月、横橋弥寿夫校長着任、この頃より、由緒ある田間の校地も生徒数の増加、校舎の老朽化と運動場の狭隘とにより新しく校地取得の必要性が高まり、同窓会・地元有志の強力な支援により、松之郷久我台に用地を取得することが可能となった。この間文部省指定の進路指導研究に取り組み成果を上げた。
 昭和四七年(一九七二)四月、岩本層三校長の時、新校舎が起工され、間もなく完成を見て、全面移転を達成した。
 その後伊藤晴男校長、石橋至正校長の時代に商業高校としての機能と教育内容の充実に努め、昭和五三年(一九七八)一一月創立五〇周年記念式典を挙行した。
 昭和五六年(一九八一)四月、渡辺高秀校長を迎え、同窓会館兼宿泊研修所を建設せよとの声が高まり各位の熱烈な協力により、県下随一の合宿施設が完成、緑溢れる広大な台地に近代設備を誇る県下有数の環境に恵まれ、躍進をつづけている。

県立東金商業高等学校