東金市立源小学校

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 源小学校は東金市北西部、山武町、八街町に隣接、地区の五六%は山武杉におおわれる丘陵地帯、学区は上布田・極楽寺・滝沢・酒蔵・三ケ尻・山武町より委託の植草地区、昭和五八年度(一九八三)児童は、六学級、九三名。
 明治六年(一八七三)五月、下布田小学校(男子三九名、女子一名)、明治八年(一八七五)一月、滝沢小学校(男子二七名、女子三名)の二校が設立される。下布田小学校は、光明寺の庫裡(くり)に設けられ、八年に上極楽寺村本極寺の庫裡に移り、九年に中の向畑に土地を借り、校舎新築移転する。明治一〇年(一八七七)布田小学校と改称。
 滝沢小学校は滝沢村薬王寺庫裡を借り、明治二〇年(一八八七)、下布田小学校の分校となり、明治二六年(一八九三)、分校廃止となり下布田小学校と統合。
 明治二六年(一八九三)一二月三〇日、源尋常高等小学校が設立される。
 明治二七年(一八九四)以降日清・日露戦後の政治・経済的基盤確立のため、村民こぞって倹約、貯蓄に励み、学校教育・社会教育の推進に努力する。
 明治三二年(一八九九)二月、源小学校教育基金を募集、一万四千余円の基本財産となる。
 明治三六年(一九〇三)、源村勤倹規約をつくり、小学校入退学時、出生および葬儀、婚姻、紐解(ひもとき)等に二〇銭以上を寄付など、その他有志による多額の寄付により学校林を購入、明治三七年(一九〇四)山本村長が上布田の猪野力太郎より山林四町六段一畝十歩の土地を五〇年間借り受け、杉・松・桜等を植樹、児童生徒に育成管理せしめた。
 明治四〇年(一九〇七)、校舎増築、不就学児の援助により好成績を収める。
 当時児童は勤倹規約により、各家庭毎月一〇銭の貯金を励行。
 源小・日源中の校舎の増改築の費用はこの部分林の収益より充当された。
 明治三二年(一八九九)卒業生による同窓会が設立され「学友の親睦を永遠に保存し、同窓生互ひに協力し知識を交換し、勇気を振作し本校の恩に報ゆる」ことを目的とし、この同窓会は後に青年会として活躍、その成績優良につき県より金五〇円を贈られ、表彰された。
 明治四三年(一九一〇)、この同窓会が拡大され、風紀の改善・学術研究・産業開発・道路の修繕・道案内標設置・危険物入れ等公共の事業に活動した。
 明治三八年(一九〇五)、農業補習学校が設立され、満二五歳以下の青年たちに対して、九月一日より翌四月一五日まで夜間の補習授業が行なわれた。(当時農業補習学校の正式設置認定は大正八年(一九一九)であったから、それより十数年早く設置されたわけである。)
 明治四一年(一九〇八)一月、図書一〇〇〇冊余りを有する図書館を設立、児童生徒および一般への貸出しを行ない、また、各地区巡回文庫を設ける。
 明治四三年(一九一〇)二月、源村は全国三大模範村の一として内務大臣より表彰され、賞金八〇〇円を受けたので、それを記念して一町三段五畝の学校林を購入、また女子の補習科を設置した。
 明治四四年(一九一一)五月、東宮殿下の特使が派遣されたので、玄関前に松の記念樹を植え、同時に二階建新校舎が落成した。
 昭和一一年(一九三六)二月、小学校裏山に神社上棟、神前教育を行なう。また大原幽学の精神をとり入れ、勤倹貯蓄をすすめ、児童は家庭より藁を持ちより、すげ笠・縄をあみ、製品をもち帰り、また、兎・にわとりを飼育した。
 昭和二九年(一九五四)四月、東金町・日向村の組合立源小学校となる。
 昭和三一年(一九五六)三月、新校舎落成。
 昭和三八年(一九六三)四月、NHK放送教育の三年間の指定をうけ、ラジオ放送を母子同時視聴により、親子共通話題をもつことになる。次いでテレビ視聴の放送教育を推進、夏休み特別番組を親子同時視聴、一〇月その結果を話し合い、ラジオ第二放送でも放送された。その親子の視聴の努力は高く評価されている。
 昭和四〇年(一九六五)一月、学校放送研究公開。
 昭和四一年(一九六六)一一月、学研教育賞受賞。
 昭和四八年(一九七三)一一月二六日、創立一〇〇周年記念式典挙行。
 昭和五五年(一九八〇)三月、鉄筋三階建校舎および体育館新築落成。

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