本園は大正七年(一九一八)九月二五日設立、同八年(一九一九)二月四日付をもって認可された幼稚園であり、「東金福音教会附属東金幼稚園」と称した。
本園の創立に至る経過は詳(つまび)らかではないが、他のキリスト教系幼稚園と同様、幼児教育の視点のみならず、キリスト教伝道とその定着化の一助として幼稚園創設が企図されたものである。
園長は当時養安寺村村長であった当教会会員三須兵三郎であり、大阪泉尾で幼稚園保母であった伊藤房子を主任としてその事業が開始された。
本園は東金における最古の幼稚園であることはもちろん、千葉県下においても現存する幼稚園では有数の歴史をもつ幼稚園である。
二、戦前の概況
前記のごとく、大正七年(一九一八)に創立された本園は、その後二五年の歩みをつづけてきたが、戦時の昭和一八年(一九四三)に入って、休園せざるをえない不幸な事態に追いこまれてしまった。
昭和一八年に休園とされたのは、ひとつには教会牧師の応召等により、教会が無牧師となり、幼稚園の最終責任者の所在が問題とされたこと、また戦争末期の状況の中で子供を就園させるだけのゆとりがなくなってきたこと。それに加えて本園がキリスト教系であったことから、いわゆる敵性宗教に対する反発があったこと等による。
戦前における本園の概要として、その特色はキリスト教主義による情操教育の重視はもとより、特に見過しに出来ぬことは、少人数教育の徹底ということであろう。これは当時の状況として幼児教育に対する関心は未だ低く、従って就園する者もいわゆる中産階級の子弟や特に教育に深い関心を持つ家庭に限られ、その意味では客観的にも少人数にならざるを得ない状況ではあったが、(毎年の卒園生が一〇名足らず、総数でも四〇名を越えることは少なかった。)それだけでなく、この少数の園児達に対し、三名~四名の教師を配して園児の教育に当たったことは、教会の援助と教師の奉仕の精神によってはじめて可能であったのである。
三、戦後の概況
本園の戦後における再活動は、昭和二七年(一九五二)に始まる。昭和一八年より二七年にいたる休園時の本園の歩みの概略は以下の通りである。
昭和一八年~同二〇年(一九四五)終戦、当時の軍の要請により、軍医務室として利用される。
終戦~昭和二四年(一九四九)空白期
昭和二四年~同二七年、町立保育所の施設となる。
以上のうち特に保育所については、戦後、幼児教育に対する関心も高まりゆく中で、東金町より当時遊休施設となっていた本園の利用申入れがあり、本園としても当地の幼児教育に協力することに異論なく、ここに昭和二四年四月をもって「東金町立保育所」の開設を見たのである。
このような状況の中で漸次幼稚園の再開を望む声が教会員、卒園生の間から広まり、ついに昭和二七年、当時の東金教会牧師であった浅香敏雄の手によって再開計画が推進されることとなった。
その際一番問題となったのはもちろん町立保育所の移転の問題であったが、さいわい適当な土地が見つかり、そこに保育所が移された。
そこで本幼稚園の再開が具体化されることとなった。そして昭和二七年六月二三日をもって正式認可の運びとなった。その際二点の問題がある。それは本園の再開は法的には新設幼稚園認可の形式をとっていること、それは本園の休園措置が長期にわたることから事実上廃園と見做(な)され、再開には新設認可の形式をとらざるを得なかったわけである。その二は園名が東金幼稚園より「ときがね幼稚園」と改称されたことで、休園中に町立東金幼稚園が設立され、名称変更せざるを得なくなったが、その歩みにおいては一貫したものであった。
爾来三〇余年、戦前の資料は散逸し詳細は明らかでないが、戦後において三一回の卒園生を出し、その総数は六八七名を数える。本園は戦前・戦後を通じ、決して大規模の幼稚園とはいえないが、当市の幼児教育の歴史に不滅の足跡を残したものとして評価すべき存在といえよう。
(園長・中村征一郎氏資料)
ときがね幼稚園