若連中には世話役があって世話人・年増・小若衆などと呼ばれたところもある。
若者連の行なう神事祭礼には血気にはやって喧嘩口論、金銭酒肴の強請するなどの弊害もあり、その謝罪証文なども多い。このことから文政一一年(一八二八)には手厳しく批判され、明治に入ってからは学校の設立、就学にも影響があるとしてその解体、禁止の運動が盛んとなった。
明治二〇年(一八八七)に新たに青年会・青年倶楽部・学術研究会として新発足、夜学、講話会、新聞雑誌講読など補習教育、風俗矯正をめざす社会教化的なものから政党の青年部などの政治的団体が発生するにいたったが、これは、憲法発布、帝国議会の開会を目前にした時勢が青年の政治への関心や自覚をよびおこした結果であろう。
明治二二年(一八八九)八月、山武郡源村の青年は、若者連を廃止して修身社という青年団体を組織した。その趣旨は
「本年二月一一日憲法ノ大典ヲ発布セラレ然ル時ハ我々農民タリト雖トモ参政ノ権利ヲ有スルハ論ヲ俟タズシテ昭々タリ。然リ而シテ其権利ヲ全セント欲スレバ、余々青年輩ト雖モ安眠坐食貴重ノ光陰ヲ消費スルノ今日ニ非ラザルヲ感ジ……以テ余等相結合シテ修身社タル一社ヲ設立セリ。其組織タルヤ会日ハ農間定期ノ休暇ヲ以テシ其目的ハ国民ノ本分タル事ヲ尽サンガ為メ相互ニ親睦交誼ヲ厚フシ以テ知識ヲ交換スルニアリ。」(「修身社設立に関する請願書」東金市極楽寺山本恵一氏蔵)
このように立憲制に対する市民的自覚が青年をして若者連から脱皮させ、近代的な学習結社へとむかわしめたものである。
また、青年会・青年倶楽部には政治的実践へ志向するものもあり、匝瑳青年会・東金青年会などもその例で、主なる活動は演説討論会の開催が中心であった。明治二四年(一八九一)には全県的な千葉県青年倶楽部が結成され東金青年会もその一翼をになっていた。
明治三七年(一九〇四)日露戦争は社会教育にも影響を与え、青年を対象とする補習教育は壮丁準備教育として行なわれ、夜学会が奨励された。
会名 | 創立年月 | 所在地 | 会員数役員数 | 基本金 | 善種金 | 経費 | 収入 | 摘要 | |
支出 | |||||||||
源村青年会 | 明治四二年四月 | 源尋高小学校 | 一四一 | 一一 | 円 | 〇 | 二二七、九九五 | 村費補助 二五円 | |
一、二六三、八二〇 | 二二七、九九五 | ||||||||
上布田青年里仁会 | 明治三七年一二月 | 上布田三〇九 | 一八 | 六 | 五七、〇〇〇 | 一四一、五〇五 | 四三一、八一〇 | 農会補助 一三円 | |
四二七、八四〇 | |||||||||
極楽寺青年修身会 | 明治一七年 | 本極寺 | 三五 | 八 | 一八〇、〇〇〇 | 七二、三三五 | 区費補助 一二円 | ||
七二、三三五 | |||||||||
下布田部落青年会 | 明治四二年三月 | 光明寺 | 一四 | 六 | 一一、五〇〇 | 三六、一〇〇 | |||
二三、七六五 | |||||||||
武勝部落青年会 | 明治四二年一月 | 本隆寺 | 一三 | 六 | 一五一、〇二四 | 五一、〇〇〇 | 個人補助 五円 | ||
五一、〇〇〇 | |||||||||
雨坪部落青年会 | 明治三七年一一月 | 東源寺 | 一三 | 四 | 三〇、五〇〇 | 二〇、四〇〇 | 個人補助 二円 | ||
二〇、四〇〇 | |||||||||
植草青年進志会 | 明治三四年一一月 | 植草寺 | 一四 | 四 | 三八、〇〇〇 | 二〇、八七〇 | |||
一八、七二〇 | |||||||||
滝沢部落青年会 | 明治四二年一月 | 滝沢一六三 | 二五 | 八 | 二五〇、〇〇〇 | 五八、一〇五 | |||
四九、一三〇 | |||||||||
酒蔵部落青年会 | 明治四二年四月 | 円蔵寺 | 四 | 二 | 〇 | 一、二〇〇 | |||
一、二〇〇 | |||||||||
三ケ尻部落青年会 | 明治四二年三月 | 熊野神社 | 五 | 三 | 一四、五二四 | 一、五〇〇 | |||
一、七五〇 | |||||||||
備考 | 施設経営事業ハ各部落一様ナラズト雖、其主ナルモノヲ挙グレバ | ||||||||
一、水田ノ試作 二、畑ノ試作 三、諸種ノ品評会 四、書籍雑誌ノ購読 五、団体旅行 六、視察員派遣 七、共同労力 八、山林下草刈 九、善種金積立 十、夜業奨励 十一、起床消灯ノ合図 十二、撃剣ノ奨励 十三、其他 | |||||||||
(注 東金市源公民館所蔵文書による。) |
また、山武郡白里村北今泉の「北今泉同志会」は「区内の出征軍人に対し餞別を贈り遺族には労力を以て業務の幾分を補助」するごとき青年団体の積極的な銃後活動を行なっていた。
さらに山武郡福岡村九十根に於ては遼陽占領の報に青年三〇名が幻灯師二名を招いて幻灯会を開き、日露交戦状況を老幼男女数百名に見せたという奉仕活動を行なったことがある。(千葉毎日新聞)
明治三九年(一九〇六)六月、石原知事は、内務・文部両省の通牒をうけ、県教育会に、青年補習教育を適当に実施する方法を諮問し、青年教育施策の第一歩をふみ出した。
明治四〇年(一九〇七)六月、石原知事は青年団体組織について指示した。
明治四一年(一九〇八)一〇月、戊申詔書発布、その直後、山武郡では各町村長が集まり、詔書捧読式を行なうとともに「聖旨を奉体実行する」ために青年団の設立を申し合わせ、準則を設けた。同四二年(一九〇九)には公平青年会・丘山青年会等が相続いで設立されるようになった。
△山武郡源村青年会
大正三年(一九一四)二月二一日、山武郡源村青年会は優良青年団として文部大臣表彰を受けた。源村青年会は、戊申詔書発布を機に、源村教育会の指導により明治四二年(一九〇九)四月、九部落青年会が連合して源村青年会が発足した。
会員は一五歳~二〇歳の青年で、その後は賛助会員として一二年間在籍することになっている。第一次大戦後の新しい内外情勢を考慮して、思想の善導をねらいとしたものである。
源村青年会は大正一〇年(一九二一)一月、源村青年団と改称された。