△実業補習学校の普及
大正期本県の実業補習学校は、大正元年(一九一二)五一校にすぎなかったのに同一三年(一九二四)には三七一校に急増した。このことは、大正七年(一九一八)県当局が訓令を発して実業補習学校の施設要項・学則・規程などを示し、各市町村に対して実業補習学校設立の急務を説き奨励に努めたことが大きな刺激となったことによるとともに、社会がこれを要望していたためでもあった。山武郡では大正元年二校(私立)大正一四年(一九二五)三三校(別に私立一)が設立されている。
実業補習学校のほとんどは農業補習学校である。当時夜学会も多く見られ、東金町内にも商家の子弟・雇人など夜学会で学ぶ者も多くあった。
△源村の青年夜学会
源村は大正四年(一九一五)、一六歳~二〇歳までの年層(男子九七人・女子九一人)に補習教育を行なった。明治三八年(一九〇五)に始められ、大正元年(一九一二)「青年補習夜学校」と名称をつけ、週四日夜七時~九時まで修身、国語、算術、漢文、農業の五科目。予備科二年、本科三年の課程で、大正三年(一九一四)には徴兵検査の際の学力試験に備え、農繁期を除く週二日昼間国語算術を指導した。また、女子の補習教育は明治四四年(一九一一)に開始、裁縫を主に農閑期に小学校で実施した。
△青年訓練所の設置
大正末期、実業補習学校は内容的にも充実発展してきたが、一方軍部からの軍事教練の必要が要望され、大正一五年(一九二六)四月、勅令により「青年訓練所令」が公布され、一六歳から二〇歳までの男子を対象として修身・公民・教練・普通学科、および職業科を訓練項目とし、設置者は市町村とするという規定であった。軍事教練を重要な目標とし教練査閲を義務づけられた。実業補習学校と青年訓練所はほとんど併設されていた。青年訓練適齢簿・訓練生名簿・出席簿等を備え付け、町村長・知事への出席状況の報告を厳しく行なった。職員は主事・指導員によって構成されていた。
昭和四年(一九二九)現役陸軍少佐南部襄吉が本県全域の青訓教練指導を総括することとなり、教練指導に一段と力が加わる。
青年訓練所の査閲は二年内に少なくとも一回は受閲すべきことが定められ、査閲官は佐倉連隊から派遣された。
△青年学校の普及
昭和一〇年(一九三五)四月一日青年学校令(勅令)が発令され、実業補習学校と青年訓練所は統合され新しく青年学校が発足することとなった。
青年学校令第一条には「青年学校ハ男女青年ニ対シ其ノ心身ヲ鍛練シ特性ヲ涵養スルト共ニ職業及実際生活ニ須要ナル知識技能ヲ授ケ以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムル」ことを目的とすることが明記されている。教授および訓練期間は普通科二年、本科五年(女子三年)、研究科一年と定める。教授および訓練科目は普通科は修身および公民・普通学科・職業科・体育科で、女子は家事裁縫科を加え、本科の男子は体操の代りに教練科を課する。
昭和一〇年八月陸軍省令によって「青年学校教練科等査閲規程」が定められ、最低二年に一回査閲を実施することとなり、また、青年学校生徒標準服を制定、女生徒用徽章も定められた。
昭和一四年(一九三九)、勅令により青年学校(男子のみ)は義務制となった。東亜の盟主としての日本の位置からして、青年の知識・技能・体力を向上し、国体観念を旺盛にし、郷土の更生、地方の開発、国防力の充実に役立たせようということである。
昭和一八年(一九四三)一〇月、政府から「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が示達されたが、そのうち青年学校については「授業ハ極力之ヲ縮減スルト共ニ職場ノ実情ニ即シテ生産ノ増強、戦力ノ増進ニ資スル」と一段と即戦的な方針が打ち出され勤労動員下にきびしく包みこまれることとなった。
入所率 | 出席率 | ||
昭和3年 | 65% | 52.4% | |
7年 | 91.7% | 87.1% | |
8年 | 94.9% | 91.1% | |
昭和8年 | 山武郡 | ||
入所資格者 | 1.589名 | ||
入所者 | 1,507名 | ||
(千葉県青年処女第五巻第8号による) |