千葉県立東金青年の家

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 東金市においては、青少年の健全育成を図るため、文化とスポーツの訓練施設を作る計画を早くから持っていたが、たまたま県当局からも強い要望があったので、当時の石橋一弥市長は、まず適当な候補地の選定にあたった結果、松之郷平蔵台を最適としてえらび、友納知事の見分をわずらわしてその賛同を得た。
 そして、昭和四四年(一九六九)一月、市当局および地元関係者の会議が持たれ、七月、地権者との具体的折衝が行なわれた。その結果、譲渡契約が成立したので九月、青年の家建設対策委員会が発足、翌四五年に土地造成に取りかかり、昭和四六年(一九七一)、施設整備の仕事をすすめ、体育館・管理棟・宿舎・食堂等の建設、ガス・水道・照明等の施設、その他、計四億一千万円をかけて完成した。(敷地面積八四、六四八平方メートル)
 同年六月、定例県議会において、建築工事請負契約の締結を承認した。なお、この地平蔵台は足利時代の豪族醍醐平蔵居住の地であったから、用地造成に際しては古墳等が発掘され、多くの遺品が出現した。このような歴史的に由緒ある地にこの青年の家が設置されたわけである。
 昭和四七年(一九七二)三月、三、六九二二五平方メートルの敷地に、研修棟・管理棟・宿泊棟・講堂等が竣工、宿泊定員二〇〇名。
 かくして「千葉県立東金青年の家」の建設は成り、昭和四七年六月二〇日、県知事はじめ来賓多数出席のもと盛大な開所式が行なわれた。初代所長には菅谷浩が就任した。
 昭和四八年(一九七三)一〇月、市営グランドで第二八回国民体育大会、ソフトボール大会が行なわれた際、天皇・皇后両陛下行幸啓になられ、青年の家にもお立寄りになられた。
 青年の利用状況も年々増加し、昭和四七年開所年度二万六千人が、五一年度(一九七六)は五万三千人、五六年度(一九八一)は六万四千人を越える利用者となった。
 昭和五一年六月、郷土の詩人でもある県会議員・鈴木勝作詩、大谷真作曲による所歌が発表され、多くの研修生の「今日の集い」に歌いつがれている。
 昭和五七年(一九八二)七月、青年の家も開所以来一〇年を経てその修繕塗装の必要にせまられ、関係者の尽力で予算化され、全館の修理工事も無事完了。
 同年一二月一一日、新装なった会場で沼田県知事、今井県教育長はじめ来賓多数が出席し盛大に開所一〇周年記念式典、祝賀会が挙行された。
 規律・協同・友愛の精神を培っていくことを目的としたこの社会教育施設、「東金青年の家」の責任はいよいよ重くなって行くことであろう。