御成り街道

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 徳川家康が土井利勝に命じて、慶長一九年(一六一四)に一夜にして造り、同一九年一月九日には、この道を通って東金に来たといわれる御成り街道について、「鶴御成りと東金御殿」という著書を郷土史家清水浦次郎氏が著している。
 それによると、
 
「東金街道は、船橋市より東金に至る一〇里一五町(船橋御殿跡より東金御殿に至る)殆んど一直線なり。直線(九里二七町)。家康は狩猟のため東金街道を開かんとし、これを当時佐倉の城主土井利勝に命じて築かしめたるものなりといふ。伝ふる所によれば、船橋大神宮(県社意富比神社)と東金平方新田との間に烽火(のろし)を挙げ、一夜の中に道路の形を造りたるものなりと。察するに、船橋と東金との間を一夜の中に烽火により一直線の道路の形を造りたるは信じ難きも、急速に測量せしなるべし。東金街道船橋より東金に至る間に上り坂一四、下り坂一四あるも、少しく北方に迂廻(うかい)すれば大部分は避け得べきも、特に直線を採りしは距離を短くせんがためなりしなるべし。此の道路開通後、畑地の開墾につれ、新に聚落(しゅうらく)の発達せし所謂(いわゆる)新田と称する部落は多く此の街道に沿うて発達し、其の以前より存せし旧村は多くこの街道と谷に沿うて直角に発達しつつあり。即ち、前者に前原新田・大久保新田・犢橋(こてはし)新田・長沼新田・吉岡新開・滝台等あり、後者に藤崎・天戸・犢橋本郷・中田・富田等あり……云々。」
 
とのべられている。

御成街道


御茶屋御殿跡(千葉市中田)


 

 国土地理院発行の五万分の一地図「東金」「千葉」を見ると、この道路は、ほぼ一直線に画かれ、八街町沖地区、千葉市六方町において道路が切断されているが、左右の直線道路の連続性が明確によみとられる。その他は千葉市中田町において多少の屈曲をみるだけである。
 距離短縮について見ると、図でわかるように、一番短距雑であることがわかる。

 

 この道を「一夜街道」と呼ばれることは、前述の通りであるが「慶長一九年(一六一四)従(より)舟橋東金新道作帳」※(吉田家文書)によれば、沿道九六の村々の動員状況を知ることが出来るし、一夜街道といわれる事情も知ることが出来る。
 この御成り街道の起点として、清水浦次郎氏は、船橋大神宮説をとっているが、安藤一郎氏は、
 
「起点と終点についてそれぞれ三説ある。起点の三説とは、
(1) 船橋御殿表御門説
(2) 船橋大神宮西端説
(3) 佐倉街道との分岐点説
の三つである。
 一線上ではあるが、起点のとり方で二キロメートルの誤差を生ずる。
 私は(1)の船橋御殿表御門説をとりたい。」
 
 と述べている。
 更に、「「終点の三説」とは
(1) 油井(ゆい)経由説
(2) 大豆谷(まめざく)経由説
(3) 日吉神社経由説
であるが、いずれも一理ありながら、同時に難点をかかえている。
 図に見られる県の蚕糸センターから八鶴湖に向けて、一線に並ぶ三つの道祖神は、私には御成り街道沿いに置かれたものと思えてならない。」
 
 と(3)の日吉神社経由説が正しいのではないかと言っている。
 このことについて編者も関心を持っているが、次の図によって大豆谷説(2)ではないかと思っている。日吉神社経由は
1 急坂を通ること。
2 裏門を横に見て表門に出ること。
3 御成橋という橋があるが、ここは通らないこと。
等がその理由である。ただこの起点・終点については今後の究明にまたなければならない。

 

(なお、御成り街道については、「東金市史・史料篇三」所収・御成り街道関係文書(一五-四〇頁)を参照されたい。)

 


第1図 御成街道全図(○印は開鑿に動員された村々)