中野村--和泉村--野呂村--中田村字宮田--川井村--佐和村--至二千葉町一
となっている。
この道は佐和村から山科を経て坊谷津・星久喜、そして曽我野または千葉町へと進んでいる。
すなわち、明治一五年以前の「東金街道」は、今の国道一二六号線とは、西部において異なっていた。
では、今の道はいつの時代に出来たであろうか。この建設時期は詳らかでないが、恐らく、明治中期以後と推察される。
川井村の交叉点の道しるべに、
「西、千葉江戸道、東、東金道」
とあるのが今なお残っていて、当時の街道を物語るものとして重要視されているが、この道標は、近くの竹やぶの中に移動されていて注意しないと見ることが出来ない。
この旧千葉・東金道について、鈴木勝氏は昭和五三年(一九七八)刊行の「郷土史」の中に、「東金街道短見」なる一文をよせている。
鈴木氏はその中で、
「旧東金街道は慶長一九年(一六一四)建造された御成り街道よりもかなり古く、康正元年(一四五五)東常縁(とうのつねより)その将浜春利をして築かしめたと歴史にある。寛正三年(一四六二)酒井定隆が中野城居城当時から相当重要な軍事上運輸上の交通機関となっていたであろう。」
と述べ、更に
「この東金街道があるに拘らず、佐倉城主土井利勝によって、工事させた御成り街道は、果して家康の狩猟道路として考案されたものであろうか。もっと深い政治的な意味をもって企画されたのではないか。」
と御成り街道設置について疑問をなげかけている。
ただこの旧東金道は数か所の急坂があり、屈曲も多い。その通行上の欠点や距離短縮を図って新しい東金街道が計画されたのであろう。事実旧道は宮田から大和橋まで約一〇・七五キロメートル程あるが、新道は同じ区間を約九・五キロメートルで結んでいるようである。
なお、旧道は千葉に入るのに、坊谷津(ぼうやつ)・鮒田池から大学病院前の猪鼻(いのはな)を通り病院坂を下って大和橋に到達していたと見られるが、新道は加曽利から都町に入り、病院下亀が岡を廻って大和橋に到着した。この病院下を通る道は、拡幅のできない地形で、交通機関の発達と大型化のために、現在は都町から鶴沢小学校前を通って本町へと直線道路が出来て、東金街道となっている。
この新しい宮田--大草--加曽利--都町への街道を国道一二六号線と名づけている。
現在、千葉へ出るには、この一二六号線を西に向うか、丘山小学校のある丹尾地先から千葉・東金有料道路に入るかが普通である。前者は京成バス約一時間、自家用車で約四〇分で千葉につくが、後者の有料道路では約二〇分で行ける。後者は昭和五四年(一九七九)三月八日の開通で、その通行料は自家用車四〇〇円、大型バス等は二四五〇円でやや高値であると評されている。
スピード時代にかかって来た現在、通行料に関係なく、信号や渋帯等もなく制限時速八〇キロというところからこの有料道路を走る車は多い。
なお、ラッシュ時には一二六号線の渋滞はひどく、二キロ、三キロとのろのろ運転も余儀なくされている。
したがって、道路事情にあかるいドライバーは、一二六号線をさけて、旧東金街道をぬけるものも多い。