「鎌倉街道ハ、源頼朝ノ創設スル所ニシテ、鎌倉ニ於ケル中央政庁ト各国ニ於ケル地方庁トノ連絡ヲ図リ、鎌倉ニ於ケル源大将ト、其家ノ子郎党タリシ守護地頭ヲ召集セントスル時、又家臣等ノ一面ヨリ見レバ、「いざ鎌倉」ト云フ時ハ、彼ノ謡曲鉢ノ木ニ見ル如ク、白金物打タル糸毛ノ具足ニ、金銀ヲノベタル太刀、刀、飼ヒニ飼ウタル馬ニ乗リ、乗替中間キラビヤカ打チ連レ々々々々ノ鎌倉入リハ、此鎌倉街道ニ依リシハ勿論ナリ。」
また、「市原市史・別巻」(昭和五四年刊)には
「源頼朝が鎌倉幕府を開いた時も街道を定めた。姉崎地区の立野に〝鎌倉街道〟という字が残っている。これはその名残りである。この道は木更津港に通じていたもので、木更津の烏田にこの名を刻んだ石碑がある。」(四五〇頁)
と記されている。
この後者の烏田、これは木更津市の南にあって、昔の波岡村、鎌足村に向う道路の沿線であるが、この中烏田字堂谷通称曲り坂台にある示道碑は古老の言によると建久年間(鎌倉時代初期)に建てたものと言い伝えられ、文字の読み得るものは、
右 からす田道
北 かまくら道
左 高くら道
の三行だけであるという。
前者の姉崎町立野字鎌倉街道は、小字名として残っているが同じように根形村野田字鎌倉街道及び長浦村蘇波字鎌倉街道があり、平岡村川原井には鎌倉通りという地名が残っていて、それらを結ぶ道路が「鎌倉街道」として考証されている。
東金市においては、このような明確な示道碑や地名は残っていないようであるが、郷土史研究家の調査によって、松之郷地先に他地区の鎌倉街道と同じような特徴をもつ道路があると言う。
その特徴は
ア 道の両側には土手が築いてある。
イ 沿道に桜樹等が並び立っている。
ウ 時には沿道に古墳のような小高いところがある。
エ 丘陵地帯では丘陵の最高地点を結んでいる。
オ 多少の高低があるも案外平坦地が多い。
カ 道巾は四五間である。
キ 所々に白幡神社(源頼朝をまつる)がある。
であるが、こうした道が、図に示す通りに存在するという。勿論、このすべての特徴を持つものでないことは言うまでもない。
すなわち、一つは、東金市田間から上布田へ通ずる道路を、殿谷(とのざく)の坂付近で菅谷に直行し、城坂と称するあたりから水田のある谷を横切って、西の丘陵地の高所をほぼ直行して、八街町滝台に出て、御成り街道につき当たる道で、ここは現在殆んどが山林であるが、土堤等が続き見られ、その土堤間の距離は四~五間というものである。
もう一つの道は、道庭より、山のふもとを西に向かい、粟生に至り、東金上布田間の県道を横切って、三ケ尻の丘陵上に出て、ほぼ直線で西にむかい、滝沢の南より南西走して、畜産センターを左に先の鎌倉道と合するものである。
この道は、東の部分で、家の子に通ずる道路もあるという。
久我城址・平蔵砦・家之子御所等いずれも鎌倉時代の史蹟であるが、これらは鎌倉時代後期のことであり、この鎌倉道がいつ作られたかは詳らかではない。
なお、次に示す「君津郡史」に見える鎌倉道とこの滝台の道がどうつながるかは、今後の研究にまたなければならない。
参考資料
鎌倉街道
「遺跡ノ最モ明瞭ナル地ヲ先ズ挙グレバ、即チ左ノ如シ。東ハ市原郡戸田村中高根ニ起リ、西ハ君津郡根形村下新田ニ至ル。此延長約三里ニ亘ル。(中略)此ノ間ニ於ケル現状ヲ略述スレバ、鎌倉街道ノ両側ニハ、元高土手ヲ築キタリシガ如キモ、其アリノママ痕跡ト認ムベキ処ハ極メテ少ク、土手アリト雖(いえど)モ、古昔ノモノニアラズシテ、後年全ク撤廃又ハ縮少ノタメ其原形ヲ変ジタルモノ多カルベク、或ル所ニハ老桜ノ並ビ立チテ数百年ノ久シキ、今尚花季爛〓(らんまん)旅情ヲ慰メシ往時ヲ追懐スベキモノアリ、或ハ沿道小高ク、古墳ノ如ク此ニ登リテ遠望スベキ所アリ。
沿線東西約三里ニ亘レル其中央部ニ於テ県道ノタメニ中断セラレタリ。此県道ハ北姉崎町ヨリ南君津郡馬来田(まくた)村ニ至ルモノニシテ、姉崎町天羽田ト平岡村上泉ト相接スル所ノ県道ハ切通シトナリ、道路ノ面ヨリ高サ約十間モアルベク、而シテ鎌倉街道ハ其最高地点ヲ東西ニ連亘セルナリ。
此ノ外ハ多少ノ高低アルモ概シテ平坦ニシテ、現今尚里道トシテ使用セラレツツアレド、道幅ハ概シテ四・五間アリ、人通リ尠(すくな)キガタメ全道幅ノ五分ノ一位ハ草ヲ生ゼズ、其他ハ多ク雑草ニ覆ハレタルが如シ。以下略。」