東金町内五橋

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 杉谷直道は次のように記録を残している。
 
 ア 鶴見橋 上宿と砂郷の間にある木橋
 イ 御成(なり)橋 上宿町中央にある石橋
 ウ 三枚橋 上宿と岩崎の間にある石橋
 エ 金(こがね)橋 新宿町内にある石橋
 オ 東(あずま)橋 新宿と田間境にある石橋
 
 この記録をもとに、東金町内の水系を調査し、現在の各区の現状にてらし合わせてこれらの橋の位置を考えると次のようになる。
 現在、一二六号線の歩道になっているところを見ると、上側(山よりの方)の歩道の方が広い。このコンクリート板でふさいである広い歩道の下は、嘗(かつ)て川とよばれて常に水が流れていた。
 この水は、北より岩川池の水が流れ出して田にひかれているのであるが、田間と東金の境をおりた水が片貝県道と一二六号線の交叉点に流れ出て、水門でたち切られると一二六号国道にそって町内を流れる。
 この水が、新宿を通過して、新宿と岩崎の境、だいの店の前に来ると、鹿間商店わきに流れる水路が別れる。
 なお、国道ぞいに流れる水は、多田屋前を通って、岩崎南端の藤田商店と天野理髪店の間を流れる八鶴湖の水と一つになるが、ここで上宿下の田にそそぐ水路が別れる。
 更に、一二六号線に沿って南流する水は、風戸写真館の前を流れ下る八鶴湖の水と合流する。
 この川は、上宿から台方へと続くのであるが、上宿の小川味噌店前では国道一二六号線を横切って、上宿裏道ぞいを流れる水路に水が落ちるようになっている。これを図示したものが、左記の図である。

 

 東金町内五橋とは、これらの水路にかけられた一二六号線並びに一二八号線上の架橋である。
 すなわち、
 
ア、鶴見橋
 図の①橋である。ゲタモ呉服店の前で一二八号線は一二六号線と別れる。わずか数十メートルで砂郷になり、上宿と砂郷の間にある橋といえる。徳川家康が東金御殿を築き、鷹狩りに来た頃は、このあたりから原野が一望のもとに眺められたであろう。
  広瀬に鳥見塚があり、ここに鶴見橋があって、往時を偲ぶにふさわしい。
イ 御成(なり)橋
 図の②の橋、小川味噌店前にあった橋であろう。御成りということは、御成り街道・御成り新道・鶴の御成り道と使われ、皆徳川家康にかかわるものである。
  この御成橋も、家康御成りの節に渡られた橋ということになろう。
  ところで、東金御殿の御門は、今の電電公社付近で、その入口も電電公社入口というのが定説である。
  ただ御成り街道について、東金終点説に数通りの解釈がある。それは、日吉神社前を八鶴湖畔に出て、御殿わきを通って御門から入られた説と、油井から台方を通って御門に入られた説、更に大豆谷から台方に出て上宿にある御門から御殿に入られた説とである。
  もし、この②の御成橋を渡られたとすれば、八鶴湖畔通過説ではなくなる。今後の研究にまつものである。
ウ 三枚橋
 図③にあった橋で、この地点は、上宿と岩崎の境であり、今なお三枚橋の地名が残っている。現在残っているものとしては、この橋と、田間の北ノ門橋であろうか。
  これは石橋であって、察するところ三枚の石が並べられていたと想像されるが、古老にきいても、その形態等詳らかではない。
エ 金(こがね)橋
 こがね橋と読む。図④であろう。
 新宿町内には、二つの橋がある。金橋は、この地点すなわち、だいの店前から鹿間商店わきへ流れる水路にかかっていた橋であろう。
  というのは、今一つの東橋が、新宿と田間との境にある橋というからである。
  なお、この金橋わきに、内玉へ入る八幡橋があるということであるが、だいの店わきの道が内玉へ入る道であり、だいの店の裏の方に八幡神社が今なお存在するからである。
オ 東(あずま)橋
 新宿と田間境にある石橋ということから、図⑤になる。
  この両地籍の境は、片貝県道にそって、新宿下の田に入る川であって、片貝県道は田間地籍にある。
  このことは、東金・田間両区の人々の生活に大きな関係を持っている。一例であるが、八坂神社の祭礼に、山車、神輿等が新宿から北之幸谷に下るが、当然、田間区を通ることになる。したがって、関係者は互いに礼をつくし東金の祭礼の節は、田間の区長は勿論、その他の主達(おもだち)と呼ばれる人々は、羽織・袴に威儀を正し、この地点に神輿を出迎え、無事の通過を祈ることになっているし、田間神社の祭礼には、その神輿は新宿地区に入るため、新宿側では同様の礼をつくしている。
  東橋とは東金町の東端にある主要橋であるところから名づけられたものであろう。