東金里程一五橋

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 この一五橋は、次のように記録されている。すなわち、
 
ア 弁天橋 上宿より谷に入る石橋
イ 松橋 上宿鶴見橋傍にある裏通り第一の石橋
ウ 竹橋 上宿裏通り第二の木橋
エ 梅ケ橋 上宿裏通り第三の木橋
オ 千年橋 千鳥橋の傍にある上宿裏通り第四の石橋
カ 万年橋 三枚橋の川下にある上宿裏通り第五の石橋
キ 泉橋 谷(やつ)池の端より泉が池に至る行路にある木橋
ク 岩喜(いわき)橋 岩崎町の一角丸(大野家)の向うより谷に入る道にある石橋
ケ 八幡橋 新宿町金橋傍より内玉に入る木橋(八幡神社へ行く道)
コ 市神(いちがみ)橋 新宿より内玉に入る道にある石橋
サ 境橋 新宿と田間新町の間にある木橋
シ 宝来(ほうらい)橋 新宿町金橋の川下にある新宿裏通り第一の石橋
ス 豊年橋 新宿東橋の川下にある新宿裏通り第二の木橋
セ 千眼(せんげん)橋 新宿内玉通り北にある石橋
ソ 永年橋 新宿内玉通り南にある橋
これらの橋の説明をもとにその位置を示すと次図のようになる。
 
▽ア~カは上宿地籍の橋である。
  アの弁天橋は風戸写真館前の高校への通りにかけられた橋、八鶴湖の弁天島にちなんでつけたものと考える。(ア)である。
  イは(イ)でありウは(ウ)であろう。エは(エ)で、松・竹・梅と縁起のよい名がつけられている。
  オの千年橋は、今はふさがれて下に水路はないが、嘗(かつ)ては水路があったというし、説明記録から見て(オ)と考えられる。
  カの万年橋は、説明から見て、東光堂薬局前の(カ)と考えられる。

 

 
▽キ~クの二つは岩崎・谷地籍の橋である。
  すなわち、キの泉橋は、次の図の(キ)で、泉が池への行路とは七回り道をさすものであろう。
  クの岩喜橋は、説明通り解して、一角丸(大野家)の向う内野屋魚店と山岸薬局の間に架せられた(ク)である。
  一本松のあった湖畔の喜良久旅館裏の岩山切通しの岩と岩喜橋の岩とが関連を持つように考える。

 

 
▽ケ~ソに至る七つの橋は、新宿地籍にある。
  ケの八幡橋は、記録に見られるように、金橋の傍で、八幡神社へ行く道というから、今の幼稚園への入口(ケ)である。八幡神社は東金古道(内玉通り)の幼稚園土手下にある小祠である。
  コの市神橋は、新明様と呼ばれる神社が市(いち)の神として、ここに市がたったというから(コ)である。
  サの境橋、スの豊年橋の説明からみると、いずれがどの橋か不明である。どちらも田間新町と新宿との境にあるからである。ただ現在の家並みから考える時、新宿裏道は、田波病院わきから広田畳店前を折れて旧東金町役場をまわるようにして平山外科前の道に出るのが本通りであったのではないか。
 したがって、サは(サ)、スは(ス)と記しておく。
 シの宝来橋は(シ)である。
 セの千眼橋は「せんげんばし」であろう。浅間(せんげん)神社の「浅間」と「千眼」は相通じるし、浅間神社への道は、本来内玉の飯田家の塀にそって急坂を昇る道が本道で、今は廃道になっている。田間方面、北之幸谷方面からの参詣は必ず、この橋を渡ることになっていた。
  ソの永年橋は(ソ)であろう。内玉通りは、今全部U字溝になっており、昔の面影は全くないが、この位置で道路を斜めに横切っている姿を見るだけである。

 

 たまたま、関岡一葉氏の、「旧幕時代の橋の名称略図」を入手した。参考資料としてかかげる。

 

 〔右略図について〕
① 竹橋が疑問点として記録されている。
 ●このことについて、佐野屋前の道路を横切る川はあまりにも小さいので、果たして橋があったかどうか今知る由もない。
② 岩喜橋と弁天橋の位置が逆になっている。
 ●多分関岡氏の筆の誤りであろう。もしこの図が正しいとすれば、杉谷直道氏の記録が誤りとなる。
③ 豊年橋・境橋の位置に疑問を感ずる。
 ●豊年橋については編者もその位置について考究すべきことを述べたが、境橋と東橋が不確実に記録されている。一二六号線は東橋であるから、もしこの地点で考えるなら千眼橋の方へ入っていく道に架した橋となろう。
  「新宿と田間新町の間にある木橋」という記述には合致するが、境橋という名のイメージからすれば、その橋を渡ると、地籍が違ってくるようにも考えられる。
④ 市神橋が小倉酒店わきの通路の架橋になっている。
 ●これは誤りで、神明様の入口の橋が正しいようである。
  この略図には「最モ公然ノ道ニ非ズ。神社ノ火除(ひよけ)道ナリ」「コノ所ニ橋ハナシ。」と明記しているが、奥田包介氏は、「一二六号線からの入り口に鳥居があったし、市も開かれた地点で、市神橋がここにあったと思う。」とのべている。
  なお、小倉酒店と元小倉薪炭店との間の道は公道か私道か、これもまた研究課題であろう。
 いずれにしても、都市計画により、水路等がどんどん変更されていることから、これらの橋は更に研究をまって明らかにすべきである。