国鉄東金線

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 黒煙をはいて、轟音をひびかせながら、力強く進んでいく蒸気機関車に郷愁や躍動感を感ずる人は多い。
 日本で初めて汽車が走ったのは、ペリーが再渡来した時(嘉永七年(安政元)(一八五四)一月)、贈物として持参した模型機関車を横浜で運転した時であった。
 慶応三年(一八六七)、アメリカ人が日本に鉄道を敷くことを申請し、明治に入ると、イギリス人からも申請が出されたが、政府は自らの手で鉄道建設をきめ、イギリス人技師エドモンド・モレルを傭い入れて、建設に着手したのである。
 そして、明治五年(一八七二)五月七日、横浜・品川間に開通を見たことは周知のことであろう。
 当時、一般の人々は、これを「陸(おか)蒸気」と呼び、「たんす長持質屋に入れて、乗って見たいな陸蒸気」と歌ったといわれる。
 それから鉄道建設は急ピッチに進むのである。(ちなみに東海道全線の開通は明治二二年(一八八九)である。)
 明治二〇年(一八八七)私鉄条令が公布されて、私鉄の許可方針が示されて以来、県内の鉄道企業熱は盛んとなり、「房総馬車鉄道会社」もその一つとして、板倉胤臣・飯高〓兵衛等が発起人となって設立された。
 やがて明治二六年(一八九三)社名を「房総鉄道会社」と改正し、明治二九年(一八九六)一月二〇日、房総半島東海岸開発の目的をもって、「蘇我・大網」間の運輸営業を開始した。
 翌明治三〇年(一八九七)四月一七日、上総一の宮まで延長する。
 この頃、「両総鉄道社」「利根川水運」「総武鉄道株式会社」等が設立されていて、鉄道建設の出願をしていた。
 その一つに、「総武鉄道」の千葉-佐倉-八街-成東線がある。これは明治三〇年に開通し、東京都の本所から銚子まで鉄道がのびたわけである。
 こうして、房総鉄道の大網駅と総武鉄道の成東駅とのほぼ中間にある東金は、図に示すように、
 
 明治三三年(一九〇〇)六月に大網-東金。
 明治四四年(一九一一)一一月に東金-成東。
 
が開通して、両線を結ぶ「東金線」が誕生したのである。
 東金に汽車が走ったのは、日本に陸蒸気が走りはじめてから正に二八年後のことであった。
 県内の、どの路線が、どの区間が、いつ開通したかは、図によって知ることが出来るであろう。

鉄道開通の年度図

 古老の話によれば、「始め、千葉-東金-大網、千葉-東金-成東という鉄道が考えられたが、『陸蒸気は黒煙をはくから衛生的に悪い。』とか、『東金の耕地は一等地で、鉄道のためにこの農地をつぶすことは反対である。』というような意見があって、これを実現することが出来ず、止むを得ず、土気や酒々井のトンネル工事を含めた外房線と総武本線が生まれたものだ。」
 というが、そんな経緯を示す資料はなく、その真偽をたしかめる術(すべ)さえない。
 明治三九年(一九〇六)、鉄道国有法が制定されて、その翌年に総武鉄道も房総鉄道も「国有鉄道」となる。
 この東金線は、営業キロ数一三・八キロメートルで、求名・東金・福俵の三つの駅がある。昭和五八年(一九八三)現在の東金駅の発着時刻は、次の時刻表の通りで、
 
 上り(大網方面)二五本
 下り(成東方面)二六本
 
が動いている。このうち、千葉への直通は、上り下りとも各五本で、その他は、大網駅で乗換えなければならず、その上、乗換えのための待ち時間が、概して長いこともあって、ダイヤ改正時には常に
 
 1 千葉との直通列車の増加
 2 大網・成東駅での本線の待ち時間短縮
 
が要望されている。
 
区分 成東より 大網より
成東 0km 13.8km
求名 4.2  9.6 
東金 8.0  5.8 
福俵 10.5  3.3 
大網 13.8  0 
(東金線の営業キロ数)