序説

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 東金市は、その面積の約六五パーセントが農地であり、水田は耕地の約六七パーセントに当たる農村都市である。
 その水田は、九十九里海岸平野にあって、旱天時には「地割れ」する程の干害と、雨期には水害になやまされて来た。
 大網白里町にある本圀寺には、昭和八・九年の大旱ばつ時の「雨乞いの碑」があるが、こうしたことは、各地で行なわれていた。
 たまたま、渓水にめぐまれた地では、その水を自分達の村に引こうとして、幾多の「水争い」が起っている。そのため、こうした川の水も堰を作って、日を定めて水を流したり、灌漑面積によって、流水量を割り当てたりして来た。滝川溝渠の百樋や五十樋、十文字川の置上堰、菱沼堰などはその一例である。
 昭和一八年(一九四三)、両総用水の工事が開始された。
 この工事は、太平洋戦争をはさんで、二〇数年間という長い年月と莫大な人力と、六〇億四千九百万円という事業費を費して、昭和三九年(一九六四)に完成し、利根川の水が、この東金市の水田をうるおすようになったのである。
 東金市田間二二九九の二番地には、千葉県両総用水管理事務所が置かれた。
 こうなると、今まで関心の強かった川の水は忘れ去られて、それまで神経質に行なわれていた「てびざらい」という川の清掃も、土樋の伏替え工事も、堰の操作も自然と消滅して行った。
 しかし、古文書等に、先人のこうした努力のあとが記録されているので、これらの水利施設、百樋・五十樋(駒込樋)・置上堰・菱沼堰・十文字樋・杉の実樋等々の概要をのべ、また、両総用水や、両総土地改良等についての大要をまとめて置きたいと思うのである。