置上(おきあげ)堰

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置上堰は、公平村道庭字置上(東金市道庭)の一角に設けられている。
 ここで、東金市黒田や、八街町から流れ出る水流十文字川(土地の人は馬場川とよんでいる)の流れを二分して、「一つは公平村道庭、一つは東金町田間以下四十か村の灌漑及び飲料に供す。」というのである。
 具体的に言うなら、道庭の農協支所のわきから、松之郷に向かう道がある。二~三〇〇メートル程で、石橋一弥氏の邸宅前につくが、ここで道は直行するものと左折する二又道となる。直行は小又を通って粟生へ、左折は願成寺を経由して松之郷本郷に出るが、前者は新道庭橋を渡り、後者は道庭橋を渡る。
 新道庭橋を渡るとすぐ松之郷橋が続く。この橋は十文字川にかけられた橋で右手に置上堰は設けられている。そして一つの流れは両総用水の幹線下を横断して石橋一弥氏の門前を通り、道庭区内の道路ぞいに東・北へ流れ、やがて二分・四分されて道庭耕地に流れ出るのであるが、今はこの流れは蓋(ふた)されて、注意して見ないと見ることが出来ない。
 もう一つの流れ(十文字川)は、道庭と願成就寺との間にある田園を流れて、両総用水路をくぐり松之郷字小井戸付近で左折し、道庭と田間の境界に出る。
 この道庭と田間との境界にある堰を菱沼堰というが菱沼堰については、項を改めてのべることにする。
 置上堰は、貞享四年(一六八七)四月一二日に幕府の裁許を得て、始めて設けられたといわれており、灌漑水田の面積は凡そ七〇〇町歩(六九四二一・八アール)、飲用する戸数は四〇〇戸にのぼっていたと記録されている。

 

 参考資料
 
(一)置上堰 旧山辺郡の北部にあり、堰を公平村道庭の南端に設け、小間子原の凹処、原は印旛郡八街村に属し凹処は源村滝沢に属す及び公平村松之郷の丘陵より発する所の渓水を此に蓄(たくわ)へ、更に二分して、一は公平村道庭、一は東金町田間以下四十か村の灌漑及び飲料に供す。餘水は二派に分れ、一は片貝村田中荒生に於て宮島沼に注ぎ、一は豊成村東中に於て境川に疏す。水路延長三里許、本堰は、貞享四年丁卯(ひのとう)四月始めて設くる所にして、其の灌漑する所水田凡そ七百町歩、飲用する所戸数凡そ四百戸に至れり。
   (千葉県山武郡教育会編「山武郡郷土誌」三一頁)
 
(二)置上堰
一、貞享四丁卯(ひのとう)四月一二日 御裁許裏書
  一、道庭村 長弐間 横壱尺四寸 勾配参寸下り 方位子ノ初度
  一、拾ケ村 長弐間 横四尺六寸 勾配参寸下り 方位寅ノ四度半
一、文政二(一八一九)己卯年八月 済口証文
一、安政四(一八五七)丁巳六月  掛替
一、明治二十二年(一八八九)八月 掛替
  本年旧暦七月二十五日掛替工事着手、同八月二十六日竣工せしが、道庭区は地高の故を以て敷面を定むるに当り、十区と見解を異にし、斯(か)く時日を要するに至れり。仍(よ)って将来の為め堰の構造に関する図面を作成し、各区に之を保存せり。
一、明治四十二年(一九〇九)七月 掛替
  定杭新設
  本年五月十八日掛替工事着手、七月二十日竣工せしが此工事上敷面を定むるに当り、見解を異にし、多大なる経費と時日を浪費せしを以て、協議の上挽目(ひきめ)定杭を新設する事となり、定杭挽目より曲(かね)尺四尺弐寸を以て敷上面を定め、七月二十一日附にて為取替書を作製し、之を切半(せっぱん)双方に分有す。
  其後事故ありて、同定杭挽目より曲尺四尺を下り、挽目を附す。該(がい)挽目より曲尺弐寸を下り上敷面と定め、同年八月十八日附にて、為取替副証を作製し各壱通分有す。
 一、昭和七年九月二十六日 掛替 為取替証明治四拾弐年七月弐拾壱日為取替たる挽目定杭を廃棄し、新に標準石を建設せるを以て、本為取替証の寸法書は該石を標準として作成す。
 一、標準石銅線より曲尺参尺下りを以て敷上面と定む。
 一、樋尻勾配は、敷上面より、曲尺参寸壱分弐厘五毛下りと定む。
   (志賀吾郷著「東金町誌」二九八~三〇〇頁)