道庭と田間との境を流れる十文字川にかかった堰で、ここで分水された水は、一部は田間耕地に、一部は十文字川を流れて、豊成地区の耕地をうるおす。
道庭地区における水路は、両総用水を含めて、十分に整理されているが、今、この附近の水路略図をかくと次のようになる。
すなわち、置上堰を下った水は、松之郷橋の下をくぐって円孤(えんこ)を画きながら左へ廻り、両総用水の下をくぐりぬけて、田間地区に近づく。ここに堰をもうけてあるが、これが菱沼堰である。
この水門を閉鎖すると、水は、その側につくられた用水路に流れ入り、国道一二六号線の下をくぐって田間耕地に流れるとともに、一部はこの国道ぞいに南下して、子の神下を流れて田間の市街地へと流れ、順次田間耕地に下るのである。
なお、田間耕地への用水路に流れ入った水の一部は、ふたたび堰の下側のヒューム管をくぐって、十文字川へ流れ落ちるものもある。
菱沼堰からわけられた水は更に杉之実樋堰で、二又・前の内を通る二又用水と、田間耕地へ流れる田間用水にわけられるが、菱沼堰を通る水の主流は菱沼から関内・堀之内・宮・東中方面、所謂十文字領に流れるのである。
昔は、田間耕地への用水路の地盤をどの程度ほり下げるかは、菱沼方面の人にとっては、重大な関心がよせられ、「手樋ざらい」という時には、関係の人々が立合って、争いをさけたものであった。
この菱沼堰は寛永一五年(一六三八)三月の証文、同年四月の覚書等によって江戸時代初期からあるようだが、享保元年(一七一六)一一月御裁許、取替えが行なわれているところから、本格的な堰はこの頃と見てよいであろう。
その後安政五年(一八五八)六月、明治一〇年(一八七七)九月、明治二九年(一八九六)、大正一四年(一九二五)八月に「堰替」の記録がある。凡そ二〇年~三〇年に堰替えが行なわれていると見てよいであろう。