十文字樋

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 菱沼堰と並んで設置されていたというが、両総中部土地改良区(別項)の事業推進の中で、この十文字樋は廃止されたという。
 
 十文字樋の長さは壱丈弐尺八寸
    堅内法壱尺
    横内法壱尺壱寸弐分(壱尺二寸ともいう)
    敷厚 参寸九分
    勾配 弐寸五分下り
    水丈け四寸五分
    方位 申初度
 
といわれ、志賀吾郷著「東金町誌」には、
 
 「一、慶長九年(一六〇四)甲辰(きのえたつ)四月十四日 割符竹之事
 太田丹波守殿より伝はる時の出役鈴木仁右衛門殿、伊吹喜右衛門殿
一、寛永十一(一六三四)甲戍(きのえいぬ)年五月七日 御定証文
 水丈け四寸五分十文字村。水丈け五寸田間村
 伊奈半十郎内中郷作左衛門、大河内金兵衛内湯本作右衛門裏書
一、寛永八年(一六三一)卯(う)年四月 為取換(とりかわせ)書
一、文化二年(一八〇五)八月 済口証文(東金町外一二ケ村の扱に係りたる為取替書)
一、文化十(一八一三)酉(とり)年六月 堰替(せきかえ)差入証
 樋長壱丈弐尺四寸を木挽(こびき)間違壱丈弐尺参寸弐分に仕立長八分不足し掛替に差懸り仕直に困難致し次第は先規通相違無くすべき差入証
一、安政五(一八五八)戊午(つちのえうま)年十月 堰替(せきがえ)
一、明治二十四年(一八九一)七月 堰替
 旧七月四日工事着手、同十三日竣工
一、大正元年(一九一二)九月 堰替
 九月四日工事着手、同十三日竣工」 (三〇一-三〇二頁)
 
と記録されている。
「菱沼樋・十文字樋の両樋の水を合わせたものを飲料用の外三分の一以上日割番水にて菱沼区引用す。」と「中部土地改良区史」(二五八頁)に記録されているが、古老も、完全に整備された今の水系、施設と、往昔の姿との関連に戸まどいつつ、
 
  「このへんにあった。」
  「三が村樋といっていた。」
  「十文字樋とはきいていない。」
  「このへんにぶっぷく樋があった。」
 
という状態で、今後ますますこうした先人の努力の跡は失われて行くことであろう。