両総中部土地改良区施設

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 東金町が、公平村・丘山村・大和村・正気村・豊成村と合併して、新東金町を成立させたのは昭和二八年(一九五三)四月一日のことである。
 この年、両総用水工事は着々と進み、両総支線土地改良事務所が東金町に設置されて、支線事業は一層促進されて行った。
 当時の東金町長能勢剛を助けた助役鈴木勝は、「東金支線事業の促進と、中部土地改良区設立構想は東金市(昭和二九年市制施行)農政の車の両輪であった。」(1)と記録に残している。
 昭和二九年(一九五四)七月、東金市と九十九里町、ならびに大網白里町は「両総中部土地改良区設立準備委員会」を作ったが、また、難関にぶつかった。それは、「ここで又ひとつの問題点に逢着した。というのは両総土地改良区の中に、更に中部土地改良区を設立することは不可という原則があるということを土地改良事務所の注意で知ったのである。」(2)
と鈴木勝がのべている問題であった。つまり「両総土地改良区」という施設がすでに出来ていて、両総用水に関係する土地改良、用排水設備等を事業としているのに、別の法人組織の中部土地改良区が東金を中心にして設立されようとしていたのである。
 そこで、両総土地改良区・土地改良事務所・中部土地改良区関係者の三者会談が行なわれたのはいうまでもない。
 その結果、昭和三二年(一九五七)一〇月一七日、設置認可申請書を提出することになり、昭和三三年(一九五八)一月二二日認可。同年二月二二日、約四、一〇〇ヘクタールを対象に「両総中部土地改良区」が設立されたのである。土地改良区の主な事業は
 
 1 水田の区画整理
 2 用排水路の整備
 3 農道の設置・市町村への依托
 4 土地の換地・高低整備
 
 等々であった。事業推進のため、関係地域を九工区にわけて事業推進に当たることになった。「九工区」とは右図の通りである。

 

 そうして、昭和三二年(一九五七)より五四年(一九七九)に至るまでに
 
 経営費総額  一四一三、〇〇八千円
 運営費総額   四二二、七〇二千円
 事業費総額   七九〇、五五三千円
 
の経費の上に事業を遂行し、昭和五六年(一九八一)一二月、両総土地改良区は、所期の目的を達し、設立当時の契約に従って、両総土地改良区に吸収合併され、静かにその姿を消した。
 
 注(1) 「両総中部土地改良区史」一三一-一三二頁
  (2) 同
 
 参考資料
  ○両総中部土地改良区(先覚者・正副議長)
   先覚者
     能勢剛 工川清二郎 遠山貴一
     石橋一弥 鈴木勝 鍬田喜久雄
     椎名昇 子安清一 鵜沢治躬
     宇津木成美 梅津英一 鎗田直義
     柿栖章一 松崎丑司 石井定太郎
     矢野良司 伊藤栄治 南静栄
     秋原清一 木原友七 山田信司
     伊藤博愛 桜井和 古川光
     吉井喜一 内山斉 鎗田謙吾
     岸本政司 桜井正中 田中正巳
     飯高賢吉 布施六郎 木内幸蔵
     片岡美穂 戸田実 山口千代吉
     大木金蔵 三橋明 松戸正雄
     外山政雄 岡本清
     (以上は設立発起人となり延いては、設立認可申請人となった方々である。)
 総代会歴代議長 飯島喜一 大野信三郎
         伊藤喜三男 南部浩
     副議長 瀬尾喜一郎
     (両総中部土地改良区史編纂委員会編「両総中部土地改良区史」(一七一-一八六頁)による)