この東金(辺田方郷)の草創期を通史年表に位置づけると、飛鳥・奈良時代頃に該当する。大和朝廷による国土の統一から大化改新を経て律令制度が確立されようとした時代である。国、郡の地方制度がようやく整備されようとしていたし、班田制が施行され、租(そ)、庸(よう)、調(ちょう)の税制も確立し、天皇を中心とする中央集権国家が確立されようとした時でもあった。
この古代に当たる時代の農業の姿を示すたしかな資料は残念ながら見当たらない。一般的な資料として班田(はんでん)制の様子を以下に示すと「孝徳天皇大化二年(六四六)詔を発して班田の制を布く。人民一般に口分田(ぶんでん)、職司あるものに職田(しきでん)、位階あるものに位田(いでん)、勲功あるものに功田(ごうでん)を賜る。之を班田の制という。口分田は国民の男女とも六歳に達した者すべてに等分に与え、終身耕作を許した田地で、男は一人に付き二反歩(当時一反歩(たんぶ)は三六〇歩)、女にはその三分の二を与ふ。男女共に力作して租を官に納め、其余を以って生計に資す。二反歩の土地より収稲する所の稲は通例百束(米五石に相当す)とす。其中四束四把(二斗二升)を租稲として納む。一把と称するは両手を以って握り得る量なり。一〇把を合せて一束と称す。残り四石七斗八升を以て自己の資とす。之を一日に割当れば約一升三合に当たると云ふ。」(志賀吾郷「東金町誌」(三一-三二頁))という次第である。
古代末期から中世を迎えようとする頃、房総半島も一つの転換点にさしかかってくる。班田制が崩壊し荘園制が全国的に広まると共に中央では藤原氏が政権を握り摂関政治を展開するようになった。
一方、地方政治は紊乱(びんらん)し、国司に威勢はなく、関東では平将門の乱(承平五年(九三五)~天慶三年(九四〇))、瀬戸内での藤原純友の乱に見られるように地方豪族の反乱が多発したり、盗賊の横行するような時代であった。将門の乱では、東金も彼の勢力範囲に組み込まれていたようである。「抑々(そもそも)王朝の政衰えてより荘園の設け漸く多く、公卿以下争うて田園山沢を占め、国郡司の政治以外に私に土地を兼併し、租税を輸せず、賦役を勤めず、遂に豪族割拠の勢を馴致し、鎌倉以後足利氏の末に至りては、所在の豪族其所領の土地に命ずるに随意の名称を以てし、或は荘と称し、或は保と名付け、郡郷の区割名称益々紛乱し郷名の濫称甚しく、其錯雑混淆殆ど判別し難かりし……」(「東金町誌」(二六頁))とこの間の様子が記載されている。そして次に迎えた源平の争乱期では、「又、東金古書ニ曰ク、治承年間(一一七七~八〇年)、上総介平広常、源頼朝公ニ属シテ、夷南夷北庁南庁北武射山辺ノ兵ヲ集ム云々トアリマス。」(杉谷直道「東金町来歴談」)とあるように、上総権介平広常が、上総の地の支配者であった。しかし、その役も頼朝によって失脚させられ、鎌倉時代は千葉一族の領有するところとなり、室町・戦国時代は武田氏そして酒井氏が支配者であった。特に戦国時代末の百年間は酒井氏五代にわたる所領であったが、豊臣秀吉の北條征伐の際、北篠氏に組みし滅亡するところとなった。
この中世、鎌倉から戦国時代にかけての農業の姿を概観すると次のようである。
「教智房は(中略)二町七反余の土地を持ち、下人と思われる次郎四郎、六郎次郎、平次太郎の三人を抱えている名主で、彼の住宅付属地には、早稲・中稲のほかに芋畑があり、畑地には芋、豆の類が栽培されていました。……東上総九十九里平野をのぞむ台地の縁辺にあった橘木荘では、建久五年(一一九四)一〇月の年貢支配状に綿、白布、雑布、油が記されています。この綿は、蚕からとる真綿で、桑の栽培による養蚕が行なわれ織物が産出されていたことを示し、荏胡麻(えごま)からつくられた燈油用の油も進納されていました。同じ頃、畳や簾(すだれ)を調製して京都に送進しています。木綿は戦国時代の天文(一五三二-一五五四)頃には関東で栽培された……。」(「千葉県史・明治篇」七五-七六頁)
近世になると徳川氏が関東に入国し、上総国一一郡は徳川氏の所領となった。
東金は当時、旗本御家人領あるいは幕府直轄領となり、細分化された支配(碁石(ごいし)交り)のもとにあったようである。
近世江戸時代の農業史を考える上で、開拓の歴史は重要部分である。
江戸時代には、房総各地に新田開発が行なわれたが、特に北総利根川流域や九十九里海岸平野などに多く、江戸時代中期の享保年間(一七一六-一七三五)以降は著しく開拓が進んだ。
「享保七年(一七二二)九月、幕府は令を発して、上総東金の開墾にあたり、地頭(大名、旗本)が開墾するならば、その土地は地頭の所領とするが、この後、幕府の費用をもって開墾する時は、たとえ地頭の私領であっても租税は幕府に納めることを定めており、その後も東金の新田村への移住希望者について令を発しており、東金地方の開拓が将軍吉宗の時代に幕府の積極的な指導のもとに進められたようです。」(「千葉県史・明治篇」一四九頁)
吉宗の享保改革時の新田開発は有名であるが、この時の東金の新田開発の代表は塚田新田の開発である。「塚崎発端書」によると、開発の状況は次のようである。
「一、東金下御拳場塚崎並に千町埜の儀、田畑開発仕り候はば、御鷹場の為めにも宜しく御座あるべしと恐れ乍ら存じ奉り、寛永一九年(一六四二)御鷹方戸田久助様御屋敷へ私ども先祖の者始めて願ひ奉り……度々御吟味御座候へども、開発の趣(儀)仰せ附けられず候。
一、享保八年(一七二三)……塚崎惣町歩凡そ三百町に罷り成り候。然る上は、先達て千五百両限りにて御請負ひ仕るべくやと仰せ渡され候に付、是非なく畏り奉り御請け申上げ候……。
一、一〇月朔日御請負い証文諸事相済み、一一日より田畑開発取り掛り、翌辰年(享保九年(一七二四))春中に至り、過半開発仕り候ところ、存知の外、百姓罷り出でず、作人御座なく候故、右開発地相荒れ申し候に付き、出百姓の儀、塚崎近村々は申すに及ばず江戸町御触れまで成し下され候。
一、享保一三年四月悪水堀御普請成され、同五年開発地御改め成され……。
一、……郷名の儀は、私ども宿字村名に願ひ奉り候。北塚崎は家徳、南塚崎は広瀬と御改め成し下され候はば、益々有難き仕合せに存じ奉り候。以上。」(「東金市史・史料篇一」(二二五-二二九))
この史料からわかるように開墾の申請は寛永一八年(一六四二)に初めて出されたが、以後度々の請願にもかかわらず、八〇年余り許可されなかった。享保八年(一七二三)になってようやく、吉宗の新田開発奨励策にのっとって許可されたことが読みとれる。その際にも、開墾面積計算のくいちがい問題や請負費用の額の問題等曲折はあったようである。開墾自体は以外に短期間で終了しているが、「存知の外、百姓罷り出でず、作人御座なく候故、右開発地相荒れ申し候。」とあるように入植者不足に悩んだようである。そのため、近隣の村々はもちろん遠く江戸にまで触れを出して入植者を募っている。そして、こうして誕生した村は北塚崎を家徳、南塚崎を広瀬と村民の希望で名づけられたこともわかる。
次に、近世江戸時代の農業の様子を「東金市史・史料篇一」所収の各村明細帳により概観してみよう。
水田は稲作の一毛作田であった。稲植付けは四月下旬頃よりはじめて六月上旬までであり、早稲の苅取りは七月下旬より八月中旬、中稲は八月下旬より九月中旬、晩稲は九月下旬より一〇月下旬までであったが、作付けの割合は晩稲が中心であったようである。施肥(せひ)に干鰯(ほしか)を用い、おおむね一反につき干鰯三俵を施している。
畑作は麦・大豆・粟・黎(きび)を耕作し、夏作として大豆・粟・黍を多く作り、冬作として麦を耕作している。その他特別の所産物は土地に不適で作られていない。
農業外の仕事は村により多少の差異が見られる。辺田方(へたかた)村では「女は木綿糸織(機)家業仕候。」とあり。福俵村では「農業之間菅笠少し縫(ぬい)申候。」とある。また、家徳村では「農業之外男は莚(むしろ)を織申候。女は木綿を織申候。」とあり、広瀬村では「農業之外男は薪取り女は木綿織申候。」とある。さらに、「当村用水懸無二御座一、旱(かん)損水損所ニ御座候。」とあるように、この地帯は旱害水害の常習地帯である。
年代 | 事項 |
七四九年(天平勝宝七) | 上総下総に旱害。 |
八四三年(承和一〇) | 上総等一八か国で飢饉。 |
一六〇五年(慶長一〇) | 一〇年の歳月を以ってこの年より島田伊伯東金に雄蛇ケ池を築く。 |
一六四二年(寛永一九) | 東金地方旱魃(かんばつ)で実がならず。 |
一六四三年(寛永二〇) | 東金義民大和田四郎右衛門御倉を破り貧民に与え自刃する。 |
一六八五年(貞享二) | 東金地方に水争いがある。 |
一七四七年(延享四) | 真亀用水に関して関係村の間で協定。 |
一七八三年(天明三) | 天明凶作。 |
一七九一年(寛政三) | 寛政期の旱害凶作。 |
一八一四年(文化一一) | 福岡村旱害害虫による凶作。 |
一八二〇年(文政三) | 福俵村等四か村旱魃。 |
一八二四年(文政七) | 長雨および大風雨害。 |
一八三〇年(天保元) | 宿村地方旱魃。 |
一八三一年(天保二) | 下谷・砂古瀬等の苗代洪水害。 |
一八三三年(天保四) | 天保饑飢はじまる。 |
一八四九年(嘉永二) | 台方村・求名村凶作につき歎願書を提出する。 |
一八五四年(安政元) | 凶作のため米拝借。 |
一八五六年(安政三) | 大風雨による稲災害。 |
一八六四年(元治元) | 山口村凶作のため訴状。 |
凶作に対しての村方の対応は用排水路の確保の努力ではなく、あくまで、個々の村人の質素倹約を旨とした対応の強調に終始している。列記すると、一、奉公に出る。一、村役人から貸米を受ける。一、日待休日も許可制とし農耕に精励する。一、質素倹約に努める。一、博奕、伊勢参宮等の旅行、普請は禁止をする。祝事は控えて行なう。等々である。
次に、用水関係について「東金市史・史料篇三」の解説を引用する。「東金地方は天然の河川にめぐまれていない。近くに川がないわけではないが、いずれも細流であるから、遠くまで引水することができない。とすれば、溜池を作って天水すなわち雨水を貯えておく方法でも取るか、山へ降った水を利用して、人工の川をつくってそれを村々へ流すやりかたを取るかしなければならない。この後者の取水がいわゆる地水(じすい)である。ところで、山といっても、東金周辺の山は皆丘陵程度の低いものばかりである。だから、多量の水流を期待できるわけはない。わずかばかりではあるが、それを高地から低地へ集めて流して、人工川を作るのである。それが小野川と滝川といわれる二つの流れである。小野川は『山辺郡沓掛谷より出て、同郡山田・小野を経て、字駒込に至り埋樋を通し来るもの』であり、滝川は『同郡滝・丹尾・油井等の谷間より湧出し来るもの』である。そして、この二流はやがて一つに合流するのである。(中略)
しかし、もともと絶対量の少ない水のことであるから、水枯れにでもなれば、紛争が醸されることは必至であり、度々厄介な問題になり、なかなか解決しにくいことも多かったのである。(中略)
さて、この二流は田畑の用水ばかりでなく、農民たちの飲み水になったものであり、それだけに、管理・運営については、常に手落ちのないよう、各村とも神経を使っていたのである。」(七五一-七五二頁)
このように水に苦しむ農業経営は両総用水の完成まで続くわけで、その間水争いも多く、「史料篇二・二六五頁」以降にその事情を示す資料がくわしい。
近代明治に入ると、廃藩置県、地租改正と断行され、政治上・産業上の一大改革の時代を迎えることとなった。すなわち、
「明治六年七月太政官の布告により、地租改正の断行となる。即ち地積を実測して租税の均衡を図る。本県は明治九年を以て地租改正に着手す。改租に就き区制を改む。即ち山辺郡を以て八組とす。大区に区長一人、副区長二人、小区に戸長・副戸長あり。各村に用掛あり、更に町村に地主総代一名、改租事務掛若干名を置く。又組合内に組合総代人あり、各小区に特に改租専務の副戸長を置き村吏を督励して事務の進捗を図る。各村に地図を製作すると共に土地一筆毎に測量を為す各村吏員集会、交互比較、反覆研究、更に検査官吏の審査を経て其地位等級を定む。山武郡内における等級の一班を示せば左の如し。
一甲 | 一乙 | 二甲 | 二乙 | 三甲 | 三乙 | 四甲 | 四乙 | 五甲 | 五乙 | 六甲 | 六乙 | 七甲 | 七乙 | 八甲 | 八乙 |
山口 | 田中 | 養安 | 大豆 | 油井 | 福俵 | 押堀 | 前内 | 幸田 | 北幸 | 西中 | 御門 | 下谷 | 広瀬 | 西野 | 依古 |
小野 | 台方 | 駒込 | 大竹 | 越智 | 川場 | 滝 | 清名 | 求名 | 桂山 | 上貝 | 関下 | 家徳 | |||
小西 | 東金 | 砂田 | 大椎 | 大沢 | 堀上 | 滝沢 | 三尻 | 植草 | 飯塚 | 木崎 | 柳橋 | 真亀 | |||
南玉 | 田間 | 餅木 | 北幸 | 酒蔵 | 布田 | 雨坪 | 長国 | 柿餅 | 白幡 | ||||||
神房 | 道庭 | 家子 | 土気 | 武勝 | 山田 | 極楽 | 北吉 | 飯塚 | 東中 | ||||||
松郷 | 仏島 | 経田 | 関内 | 一袋 | 片貝 | 作田 | 中島 | ||||||||
小食 | 二又 | 富田 | 上谷 | 小関 | |||||||||||
大網 | 北横 | ||||||||||||||
永田 |
一甲 | 一乙 | 二甲 | 二乙 | 三甲 | 三乙 | 以下 | 略 |
大網 | 堀上 | 東金 | 小中 | 幸田 | |||
川場 | 押堀 | 小食 | 北幸 | ||||
道庭 | 台方 | 金谷 | 大豆 | ||||
北ノ幸 | 福俵 | 神房 | 油井 | ||||
田間 | 小西 | 家子 | 小野 | ||||
山口 | 経田 | 清名 | |||||
養安 | |||||||
永田 | |||||||
松郷 |
各等の差は収穫穀数において一斗五升、各階の差は其半額七升五合と為す。
爾来地価の修正増減しばしばにして現今に至れり。従来、土地は総べて官地と見做し、私の売買を為すを許さず。但し質地として融通することを妨げざりき。此の場合、名主の奥書奥印を要したり。
維新前は持高十石以上の者にあらざれば、分家することを得ざりき。故に小禄の者が分家するには他の廃家又は絶家を継ぐを慣例となせしなり。」(「東金町誌」二八-三一頁)
地租改正は明治政府と地主間の租税のあり方を改正したものである。換言すれば、小作農と地主間の税関係は江戸時代と変るところなく、いきおい農業生産の構造も革新的な変化はなかったものと思われる。
明治一五年(一八八二)の「千葉県農商年報」によると県内の耕地面積は田一〇〇、九六三町歩、畑六、一三六町歩、合計一八七、一二五町となっている。人口一、一〇八、六七八人で、現時農耕者は四九四、二〇〇人、農耕者一人当たりの耕地は三反八畝弱であり、県下全体で一二六万石の米が不足する計算になるという。その不足分は、雑穀、豆類、甘藷等でまかなわれており、今日では考えられないほど麦飯、粟飯その他の雑穀や甘藷などを日常食としていたことがうかがわれる。
甘諸は下総台地と並んで九十九里平野に卓越していた。その他、粟、大豆、茶、実綿、養蚕等が当地を代表する産物と推察される。(A表を参考とされたい)
○新治県は今の茨城県である。(「明治七年府県物産表」) | ||||||
千葉県 | 新治県 | |||||
Ⅰ農作物 | 千円 | 千円 | ||||
米・糯米 | 4,845 | 3,289 | ||||
陸稲 | 9 | 2 | ||||
麦・小麦 | 945 | 489 | ||||
雑穀類 | 738 | 381 | ||||
園蔬類 | 332 | 120 | ||||
種子類 | 88 | 64 | ||||
果実類 | 31 | 5 | ||||
Ⅱ煙草類及び食品類 | 煙草類 | 21 | 18 | |||
澱粉類 | 24 | 16 | ||||
製茶類 | 120 | 30 | ||||
食物類 | 71 | 49 | ||||
油類 | 105 | 94 | ||||
醸造物類 | 1,219 | 1,095 | ||||
Ⅲ繭糸・織物類 | 蚕卵紙類 | 0 | 2 | |||
繭類 | 4 | 3 | ||||
生糸類 | 8 | 2 | ||||
真綿類 | 0 | - | ||||
麻類 | 1 | - | ||||
綿類 | 118 | 112 | ||||
木綿糸類 | 28 | 21 | ||||
縫織類 | 119 | 181 | ||||
縫裁類 | 2 | 1 | ||||
Ⅳ網縄・氈席類 | 網類 | 13 | 7 | |||
縄類 | 5 | 3 | ||||
氈席類 | 9 | 19 | ||||
Ⅴ林産物 | 竹類 | 9 | 3 | |||
木材類 | 16 | 13 | ||||
植物類 | 0 | 1 | ||||
皮革類 | 18 | 8 | ||||
菌蕈類 | 0 | 1 | ||||
蝋類 | 0 | 1 | ||||
薪類 | 92 | 57 | ||||
炭類 | 52 | 20 | ||||
Ⅵ雑工業 | 戸障子類 | 3 | 2 | |||
指物類 | 6 | 3 | ||||
藤竹葭器類 | 12 | 8 | ||||
桶樽類 | 5 | 4 | ||||
履物類 | 15 | 6 | ||||
紙類及同細工類 | 3 | |||||
塗具類 | 0 | 0 | ||||
漆器類 | 0 | 2 | ||||
文房具類 | 0 | |||||
雑貨玩具類 | 4 | 1 | ||||
諸器械類 | 18 | 11 | ||||
金属細工類 | 11 | 5 | ||||
化粧具類 | 2 | 0 | ||||
染料類 | 15 | 43 | ||||
製薬類 | 0 | 0 | ||||
薬種類 | 1 | 1 | ||||
Ⅶ砿鉱産物 | 金銀銅鉄類 | 0 | ||||
玉石砿土類 | 19 | 4 | ||||
Ⅷ鉱産物 | 牛類 | 41 | ||||
馬類 | 43 | 10 | ||||
禽獣類 | 97 | 0 | ||||
皮革類 | 2 | 0 | ||||
Ⅸ水産物 | 魚類 | 248 | 69 | |||
甲貝類 | 35 | 26 | ||||
海藻類 | 10 | 1 | ||||
Ⅹ雑類 | 飼料類 | 2 | 1 | |||
肥料類 | 157 | 265 | ||||
通計 | 9,792 | 6,602 | ||||
千葉県- | 安房4郡(安房・平・朝夷・長狭),上総国9郡(天羽・望陀・周准・夷隅・長柄・埴生・山辺・武射・市原),下総国9郡(千葉・葛飾・相馬・印旛・埴生・豊田・猿島・結城・岡田) | |||||
新府県- | 下総国3郡(香取・海上・匝瑳),常陸国6郡(新治・筑波・信太・行方・河内・鹿島) | |||||
(注)0は500円未満 |
「B図は普通ならびに特有農産物のうち、明治一三年(一八八〇)現在、郡別の生産額が一、〇〇〇円以上と見積られた品物を網羅(もうら)して示したものです。原資料は粗雑な見積りで、牛馬数等の見積りももらしていますが、それでも丹念に読むと当時の房総における農業生産の特徴と地域性とをいちおう理解するための手がかりになりましょう。……そのころの農村がいかに著しい穀物型農業を支柱としていたかがこの図からも知ることができます。米、麦はもちろん、雑穀や豆類もあらゆる郡で上位を占めた作物でした。一九六〇年代の今日では全く生産されないが、生産量の極めて少ない粟・蕎麦(そば)・黎(きび)・稗(ひえ)などが、おもに自給用作物として普遍的に栽培されていたのです。しかし反面、商品作物が栽培されなかったわけではありません。地域によっては実綿(みわた)、茶、葉煙草、葉藍などがある程度上位を占めているところをみると、それらの作物も一部の農家にとってだい事な現金収入源になっていたと掲像してよいでしょう」(「四三五-四三六頁)」
B図は「千葉県史・明治編」に掲載のものだが、これについて左のように説明されている。
B 千葉県の主要産物郡別分布(明治13年)