東金蜜柑

782 ~ 783 / 1145ページ
 東金は蜜柑の産地である。気候が温暖であり、土質が合うがためであるが、蜜柑をこの地方に移植し生産を盛んならしめた最初の人物は徳川家康であった。彼は鷹狩が好きで、鶴その他の鳥類が多く棲息していた東金の自然は彼の気に入って、慶長一八年(一六一三)東金御殿を造営し、ここに逗留しては鷹狩を楽しんでいたが、郷里の三河から蜜柑の苗木を取り寄せて、御殿の庭に移植し栽培を奨励したのである。そのことを、杉谷直道は次のように書いている。
 
 「徳川家康公、慶長一九年(一六一四)正月東金御殿ヘ御成リノ節、三州白輪(しらわ)ヨリ苗木ヲ取リ寄セ、御殿地樹木畑ヘ御手ヅカラ植ヱ付ケタリ。後年次第ニ繁殖シテ、明治維新ノ前年迄毎年一一月、此ノ蜜柑ヲ徳川将軍家ヘ御献上ニナル。此ノ蜜柑ノ皮ガ風邪ノ薬ニナルト江戸ノ人々ハ唱ヘマシタ。此ノ蜜柑ハ則チ御手植蜜柑ト申シテ、東金名物ノ内ナリ。」(「東金見聞記」東金市史・史料篇一・四二頁)
 
 三河国白輪は、いわゆる白輪蜜柑の発祥地として有名であるが、そこから苗木を取り寄せて手植えをしたというのであるが、これは生産奨励の意味だったことはもちろんである。将軍の勧奨であるというので、土地の人も苗木を分けてもらって栽培し、それが東金蜜柑といわれるほど一つの産業となっていったのである。江戸の人たちが東金蜜柑の皮は風邪の薬となるとして喜んだというのは、寛文一一年(一六七一)以降、東金の領主となった板倉藩で宣伝して有名になったものである。
 明治二年(一八六九)東金は宮谷県の管轄となったが、その際、東金御殿のいわゆる御手植蜜柑は五本だけを本漸寺の境内に移植することにした。それが同寺の名物として伝えられているのである。ただし、五本のうち三本は枯れてしまい、二本が残っている。
 なお、家康の奨励によって、東金地方に蜜柑栽培が盛んになったことについて、たとえば、求名(ぐみょう)地区の状況を伝える資料がある。左のごとくである。
 
 「天正一八年(一五九〇)東金城徳川氏ノ領有トナルヤ、将軍徳川家康、茲(ここ)ニ宿営(東金御殿のこと)ヲ設ケ、数回ノ巡遊ニ民情ヲ察シ、拵(しき)リニ産業ノ奨励ヲナセリ。此ノ地気候温暖ニシテ、地味亦柑橘(かんきつ)ニ適セルヲ認メ、将軍ノ生国三河国白輪村ヨリ柑苗ヲ徴シ、公親(みずか)ラ之レヲ邸内ニ栽(う)ウ。(中略)是レ実ニ此ノ地方柑橘栽培ノ濫觴(らんしょう)(物のはじめ)ニシテ、次第ニ近郷各地ニ拡マリ、本村(旧公平村)求名区亦盛ニ栽培スルニ至レリ。元ト多ク白輪蜜柑ト称シ、品質劣悪ナルモノナリシガ、近年漸ク品質ノ改良行ハレ、良質ノ温州(うんしゅう)蜜柑、西洋種ノ逸品等ヲモ産出シ、市場ノ声価漸ク揚ルニ至レリ。」(「公平村郷土資料草案」東金市史・史料篇一・九三頁)
 
 白輪蜜柑は現在は姿を消した感じであるが、当地方ではまずこれを栽培し、この経験によって漸次品質の改良をはかり、温州蜜柑へ西洋種蜜柑へと進んできたものである。それも、家康の勧奨が基盤になったことは認めなければなるまい。
 ところで、家康の蜜柑奨励はわが東金地方だけではなく、東総地方にもおよんでいたのである。それは、小笠原長和氏の近著「中世房総の政治と文化」所収の論文「徳川家への献上柑子(こうじ)」に書かれているが、氏によると、銚子および海上郡各地、佐原および香取郡各地、八日市場から九十九里沿岸各地にまでおよんでいたもののごとくである。そして、その奨励基地となっていたのは東金であったようだ。すなわち、氏は永井信濃守尚政・井上主計正就ほか二名から柑子坊主にあてた、
 
 「東金ニ蜜柑并ニ柑子置キ申スベキ由ニ候ノ間、彼(か)ノ地ヘ早々参リ、高室金兵衛差図次第、入念ニ置キ申サルベク候ナリ。
   十二月十五日           」 (同書、四三一頁)
 
という書状を引用し、これについて、
 
 「家康が関東に入国の砌(みぎ)り、東総方面へ巡見したとの所伝もあるので、(中略)元和元年と覚しき文書(右記の書状をさす)に、東金に宛てて、蜜柑および柑子の輸送をせよとの命が、柑子に対して出されているのをみても、家康と東総の柑子との以前からの関係を覗わせるものがある。」(同書、四三九頁)
 
と説明されている。これによると、東金御殿に蜜柑の苗木をあつかう坊主(僧体で雑役をする下役人)をおいていたものらしい。また、高室金兵衛とは、元和元年(一六一五)から同九年(一六二三)まで東金代官をつとめていた人物である。
 こうしてみると、東金および東総各地に対して、家康はかなり積極的に蜜柑栽培を奨励したもののようで、東金が供給地たる役割をはたしていたことになる。ただし、その成果は土地の状況などによって相違があったらしい。中には、その名残りを全くとどめていないところもあるようだ。しかし、このおかげで現在でも蜜柑栽培を継続して、いくばくかの利潤を得ているところも相当あるにちがいないと思う。
 さて、家康以後、東金蜜柑の栽培に力をつくした人としては、桜木〓斎(おうぎぎんさい)の名を逸することはではきないであろう。〓斎は寛政のころ長崎聖堂教授として活動した人であるが、東金と長崎の間を往来した際、中国温州から長崎へ入ってきた温州蜜柑の苗木を東金に持ち帰り、農民たちに栽培を奨励したのであった。それが、東金蜜柑の普及に役立ったことは少なくなかったと思われる。