輸出品 | 189件 | 元価 | 2,114万円 |
輸入品 | 381件 | 2,918万円 | |
輸出品 | |||
万円 | |||
生糸 | 721 | ||
熨斗糸(のしいと) | 12 | ||
殻繭(からまゆ) | 25 | ||
真綿 | 18 | ||
蚕卵紙 | 306 | ||
米 | 54 | ||
煙草類 | 28 | ||
人参 | 14 | ||
椎茸 | 15 | ||
寒天 | 10 | ||
昆布 | 53 | ||
乾鮑 | 14 | ||
鯣(するめ) | 20 | ||
煎海鼠(いりこ) | 23 | ||
木蝋(きろう) | 43 | ||
漆器 | 16 | ||
陶器 | 12 | ||
〓(あらかね) | 22 | ||
銅 | 61 | ||
石炭 | 64 |
(明治七年一〇月「郵便報知」) |
この開国によって、日本の蚕糸業は著しく刺戟されるところとなる。しかし、明治初期の房総の蚕業は信州・上州を中心とする主要地域とは比べようもないほどの微々たる生産であった。それでも一部の人達は、全国的な蚕業の著しい勃興によって刺激を受けた。養蚕教師の招聘、生糸会社の設立、天然桑による飼育の試みなどが行なわれたが、いまだ技術水準も低く、「養蚕をなす者は山師」とか、「桑は地味に合はざるに似たり、未だ能く繁殖するものを見ざるなり。」という有様で、半ばあきらめた状態であった。
蚕業が全国的な興隆の波にあおられて、千葉県でも積極的に推進されることになったのは船越衛が県令となってからのことである。明治一〇年(一八七七)の「全国物産表」は左記の通りである。
明治10年頃の房総三国生産量 |
繭 | 生糸 | 実綿 | |||
安房国 | 斤 | 斤 | 万斤 | ||
安房 | … | … | 16 | ||
平 | … | … | 22 | ||
朝夷 | … | … | 12 | ||
長狭 | … | 1,229 | 18 | ||
小計 | … | 1,229 | 68 | ||
上総国 | 天羽 | … | … | 32 | |
周准 | … | … | 34 | ||
望沱 | 141 | 19 | 105 | ||
市原 | … | … | 59 | ||
夷隅 | 337 | 28 | 84 | ||
埴生 | 300 | 23 | … | ||
長柄 | 4 | 2 | 118 | ||
山辺 | 100 | 5 | 130 | ||
武射 | 439 | 149 | 30 | ||
小計 | 1,321 | 226 | 592 | ||
下総国 | 千葉 | … | … | 9 | |
葛飾 | 2,643 | 32 | 451 | ||
相馬 | 4,591 | 152 | 363 | ||
印旛 | 1,292 | 120 | 105 | ||
埴生 | 15 | … | 22 | ||
香取 | 575 | 24 | 24 | ||
海上 | 130 | … | … | ||
匝瑳 | 3,152 | 1,141 | 39 | ||
小計 | 12,398 | 1,469 | 1,013 | ||
合計 | 13,719 | 2,924 | 1,673 | ||
(注) | 葛飾郡には茨城県・埼玉県の各一部がふくまれる。下総国中,茨城県に属する4郡を省いた。上総国・下総国17郡の平均単価は1斤につき繭53銭,生糸3円25銭,実綿8銭であった。 | ||||
(勧農局編「明治一〇年全国農産表」(明一二・一一発行)による) |
この表でみると、当時、まゆの生産の多かった所は、利根川沿いの相馬郡を中心にして、東葛飾郡から印旛郡にまたがる地域と、九十九里平野の北部を占める匝瑳郡であったことがわかる。そしてこのほか武射・山辺郡から夷隅郡にかけて、わずかながら、養蚕ぼっ興の気運が動いていると読みとれる。
押掘村(東金市)の高宮辰次郎は慶応年中から養蚕に志し、明治一〇年以後は桑の購入、販売等をはじめ、同一六年(一八八三)には秋蚕飼育を行なった。また京都から織工を招いて絹織物工場を設けたり、山辺・武射郡養蚕伝習所の設立に努力した。しかし、まだまだ明治一〇年代の千葉県の養蚕は未熟の段階にあったといえる。
明治二〇年代前後から千葉県の養蚕業は急に活発化した。
県の蚕業奨励施策の一つとして行なわれた桑苗貸付は養蚕普及に大きな足跡を残している。県会の議を経て、一戸五〇〇本ずつの桑苗を、二か年据え置き、自後三か年の年賦返還の条件をもって払下げを断行した。明治二一年(一八八八)船越知事は県庁職員への示諭で、一〇〇万株の桑苗貸下げのことをあげ、「この勢にして駿々進むあって、退くことなくんば、数年ならずして県下一大物産を興起し、農業の経済を一変するに至るべし。」と養蚕業の前途を期待している。
表によると、養蚕分布の重心は、明治初期にならって、県の北半部にある。特に印旛郡と武射郡が最優位を占めているが、九十九里平野全域も主要養蚕地域になりつつあったようである。養蚕家数の最も多い印旛郡と武射郡では、それぞれ一二%、一六%の農家が養蚕を行ない、平均八斗余のまゆの生産をあげている。これは金額にして、一戸平均二〇円前後であった。大工や左官の一日の賃金は全県平均の見積りが二二銭程度であるから、これから推して、当時の養蚕農家の養蚕収入水準がほぼわかる。
最高 | 最低 | 平均 | |
円 | 円 | 円 | |
明治38年 | 1,070 | 910 | 969 |
43 | 990 | 820 | 864 |
大正 4 | 1,150 | 735 | 850 |
9 | 4,360 | 1,100 | 1,663 |
14 | 2,130 | 1,770 | 1,957 |
昭和 5 | 1,190 | 540 | 775 |
10 | 1,005 | 575 | 713 |
15 | 2,387 | 1,350 | 1,510 |
(1958年「日本農業基礎統計」)(単位 100斤) |
明治23年旧郡別桑畑,生産まゆ比較
(「明治23年・千葉県統計書」)
その後明治末年にいたる県内養蚕業の発展はまことにめざましく、桑畑面積は明治二三年(一八九〇)に比べて三三年(一九〇〇)には三・三倍、四三年(一九一〇)には五倍に増加し、収繭量は左の各年度に九倍余と一八倍余に増大した。地域的にみると、二〇年代のはじめに優位を占めた山武・印旛・香取郡の桑畑や収繭量はその後ますます増加し、匝瑳・海上・長生等の九十九里地方の諸郡もこれにつづいて、主産地域の形成を一段と明確にした。
明治後半期の養蚕業の分布(明治23,43年)
養蚕家1戸当たりの収繭量
明治の末期頃から日本の中核的養蚕圏に加わるほどになっていた千葉県の養蚕業は大正期にもその成長を維持し続けた。
耕地(田・畑)に対する桑畑の割合は、田の面積におされ、高いところで一〇%台の二郡だけであって、それほど目だたないが、畑に対する割合でみると、三〇%前後を示す山武・匝瑳をはじめ、九十九里から県の北東部諸郡に相当桑畑が広がりつつあったことがうかがわれる。
各郡の農家総数に対する養蚕家の割合で、山武・匝瑳の五〇%台、これにつづく印旛・香取の三〇%台等は、これらの地域を中心として養蚕熱が顕著におこったことを示している。
郡 | 桑畑 | 養蚕家 | 養蚕家1戸につき | ||||
耕地に対し | 畑に対し | 養蚕家1戸につき | 農家に対し | 掃立枚数 | 収繭高 | 繭価額 | |
% | % | 反 | % | 枚 | 石 | 円 | |
安房 | 1 | 3 | 1.4 | 6 | 1.6 | 1.59 | 62 |
夷隅 | 1 | 4 | 2.1 | 6 | 2.0 | 1.91 | 74 |
君津 | 2 | 6 | 2.6 | 8 | 2.6 | 2.55 | 95 |
長生 | 6 | 15 | 3.3 | 23 | 3.5 | 3.11 | 112 |
山武 | 12 | 29 | 3.5 | 50 | 4.3 | 4.16 | 156 |
市原 | 3 | 9 | 2.8 | 14 | 2.0 | 1.97 | 71 |
千葉 | 3 | 4 | 1.2 | 10 | 3.4 | 3.17 | 115 |
東葛飾 | 2 | 3 | 1.7 | 12 | 2.0 | 1.82 | 67 |
印旛 | 9 | 16 | 3.4 | 38 | 3.6 | 3.51 | 130 |
香取 | 6 | 20 | 2.8 | 31 | 3.6 | 3.15 | 122 |
海上 | 7 | 13 | 3.4 | 24 | 4.0 | 3.88 | 156 |
匝瑳 | 18 | 37 | 3.7 | 56 | 5.7 | 5.62 | 208 |
合計 | 6 | 13 | 3.1 | 21 | 3.6 | 3.45 | 129 |
日本の生糸の輸出は、大正二年(一九一三)に一つのピークに達し、三年(一九一四)第一次世界大戦の勃発によって、わずかに減退するが、五年以後は戦時中にもかかわらず、日本生糸の輸出は飛躍的に伸びていき、八年(一九一九)には六億円を突破し、また一つのピークを作った。繭の生産額の伸びは、さらにそれを上廻り、大戦後の反動的不況の中で一時沈滞はしたが、大正一四年(一九二五)には空前絶後の記録を示している。
かかる盛況は、わが東金にも好影響をおよぼしている。たとえば、当時の公平村における状況を見ると、「村民ハ主トシテ農耕ヲ事トシ、養蚕及ビ養鷄ハ一般ニ其ノ副業トシテ行ハル。……其ノ産物ノ重ナルモノヲ列挙センカ。主産物タル米ハ八千八百石ニ達シ、其ノ価大凡十六万七千円ヲ算スベク、麦ハ二千石ニシテ、千七百円。……養蚕ハ春蚕夏秋蚕ヲ通シテ、生繭九千六百貫ヲ産シ、価格三万八千円ニ上ル。」(「東金市史史・史料篇一」公平村郷土資料草案より)という風で農家収入では米に次いで多くなっているのである。
ところで、こうした養蚕業繁栄のなかに、すでにこれをおびやかす重大な事実が醸成されつつあった。たとえば国民新聞が、「外に人造絹糸の著しい発達等を考慮する時は、日本の製糸業は到底自然の発達に放任することはできない。」と指摘しているのがそれである。加えて、世界不況の波がしのびよる中で、大正一五年(一九二六)生糸価格が惨落し、県内繭の価格も下りはじめた。
昭和期に入ると、めざましい人絹工業発達のかげで、蚕業無用の声が高まり、一方では、いや、蚕業は不滅だとの強がりも聞えたが、情勢はおおむね次のような推移をたどっていった。
昭和二年(一九二七)初秋種は糸価の崩落で製糸業者が繭の購入を手控え、「死んだ気で安値に売っている。」「一寸先きがやみの県下養蚕業者。」という文句に事態の急が報じられている。
昭和三年(一九二八)春蚕期にあたっては当初若干の高値も予想されたが、価格は予想をうらぎって安く、収繭量も減退した。しかし、生産農家は依然としてふえているところに、世界的不況にさらされた農民の痛ましい姿が読みとれる。
昭和四年(一九二九)どこも豊作で収繭量は前年の約八六万貫から、一二二万貫へ、新記録をつくったが、収繭価額は前年比一四五万円減であった。「繭は市場に山をなし」「鉄道は輸送量で大もうけ」であったと伝えられている。
昭和五年(一九三〇)全国的にみてもそうだが、千葉県の養蚕業も最悪に達した年である。不況を反映して、繭価の下落がひどく、低収入であった。
以上のように本県の養蚕業は昭和五年を生産のピークとして以後衰退へと向っていったのである。(「千葉県史・明治大正昭和篇」による)
千葉県の繭価格の推移