四 工業

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 東金は近世以後商業は栄えたが、工業はあまり発達しなかった。前出の「東金城明細記」によれば、造酒屋一〇軒と家内工業的な木綿糸機家業がみられる程度である。
 近代にはいると、工業に従事する戸数は増加していく。特に江戸時代からの流れを受けた味噌・醤油などがさかんになっていくのがわかる。(「東金町誌」)
 戦後、山武地方で江戸中期より農漁民の不況対策として普及した繊維工業が、東金付近に発達してきた。
 しかし、近年になって、繊維工業が不況なため、それに代って公害も比較的少ない電気・精密機械が盛んになってきている。グラフ等より最近の工業の伸びは、事業所数や従業員数の面でも着実さを示しており、出荷額はさらに上まわった伸びを示している。

産業別就業人口の推移


工業活動の推移

 現在、市では工業団地の造成に力を入れており、小沼田工業団地や武射田地区を中心に数多くの企業が操業しており、また二之袋地区には、工場進出が具体化している。最近は低経済成長などにより、企業の新規立地が難しくなっているので、今後とも雇用機会の確保、および市民所得の向上のため、新企業の積極的誘致をすすめていく考えである。
 
 参考資料
 
   東金の瓦づくり            河口竹治郎
  江戸時代の末期より、田間付近で瓦が生産されはじめ、明治の初期には、田間といえば瓦といわれるほどで、田間が東金付近での発祥地ではないかと思いますが、これを裏づける詳しい資料が見当たりません。(中略)
 江戸時代の末期になりますと、道の両側一帯は茅葺屋根の棟瓦、また、母家(おもや)の前庇(ひさし)に瓦を使用した瓦屋根が見られるようになり、左官仕事も追々(おいおい)増えて来ました。当時の左官は壁・瓦葺屋根・漆喰(しっくい)というように、多種目の仕事をこなしていましたのは、当時の左官仕事が少なかったせいでしょう。
 明治一一年(一八七八)六月、東金町内の左官三軒によって、建築の神と崇(あが)められてきた聖徳太子の掛軸を作り、正月・五月・九月の二二日には、町内の同業者が集まり、親睦と技術の向上を祈願してきました。これは現東金左官組合に当時の記録が残っており、現在でも引継がれて太子講が行なわれております。このように、古い歴史を持っている左官組合は、県内の他の市町村にはあまり見られないものでしょう。
 なお、当時の左官は今日のように年中仕事があるわけではなく、冬の季節になりますと、霜三月といい、仕事は皆無のため生計が立たず、農業あるいは下駄づくり等の副業で細々と暮らしていたそうです。
 ところが、明治一六年(一八八三)一二月一八日、東金の西の一角、大門(だいもん)から火を発し、西南の風に煽(あお)られて、新宿の大島屋金物店まで延焼、市街地の五分の四を焼失するという大火が起こりました。
 この火災で、母家三八〇棟、土蔵五〇棟を焼失したとある郷土史に載っていましたが、この土蔵五〇棟という数字に多少の疑問の点があります。(中略)この大火で小川屋本店の土蔵店だけが一軒焼け残ったのですが、五〇棟もあったとすれば、五一棟のうち五〇棟焼失して、復興後今日まで残っている土蔵店・土蔵倉があれだけ建てられたでしょうか。私は火災以前には、東金にはまだ土蔵づくりは少なく、小川屋本店の土蔵店(大火の時はまだ未完成であった)だけ焼け残ったので、復興建築は土蔵づくりでなければ、と増えたものではないかと思います。
 参考までに、大島屋金物店以北、田間地区には、大火前に建てられた土蔵は一棟もなく、大火後に建てられたものです。
 この一棟残った土蔵店のお蔭で、町の左官業者は一躍脚光を浴び、明治における東金左官の隆盛期に入ったのです。地元業者だけでは手が足りず、隣接町村の同業者または西行者(腕を磨くため諸国を回っている職人)も集まり、互いに腕前を競い合い、西行者の中には腕の良い職人もおり、地元の職人も大変勉強させられたといいます。屋根漆喰(しっくい)の仕事においては、東金左官独自の技術を持っており、他町村の職人が東金で屋根漆喰の技術を身につければ、他所へ行っても恥かしくないと言われたそうです。
 街の復興後は土蔵店・土蔵倉が軒を連らね、県下でも屈指の家並の良い街と言われてきましたが、時代の波には勝てず、私たちの祖先が残した東金の左官文化は日一日と失われてしまうのではないかと思います。(「東金市文化団体協議会々報・第七号」所載「失われつつある郷土の左官文化」より)

瓦職累代の墓(上行寺)