六 畜産業

803 ~ 804 / 1145ページ
 平安時代には、「延喜式」の記録によれば千葉県では牛馬の放牧地が、安房に二か所、上総に二か所、下総に五か所あったということが述べられ、歴史的には古いが残念ながらこれについては、詳しいことはよくわかっていない。これらの用途は主として軍馬・駅馬・荷役などに使われた。その後は牧畜が日本の自然条件に合わないことや、仏教の関係で肉食が禁じられたことなどから、あまり盛んにはならなかった。
 両総台地で有名な馬牧の経営の起源は、天正一一年(一五八三)に小田原の戦国大名であった北条氏政が、軍馬を育てるために千葉邦胤に命じたのが始まりとされている。一方、安房の戦国大名の里見氏も同じ頃馬牧を経営していたと伝えられるが、両方ともその後は江戸幕府の支配下におかれた。
 江戸時代には、幕府と佐倉藩が管理していた小金五牧・佐倉七牧があり、佐倉七牧は千葉・山武・印旛・香取の四郡にまたがり、面積約一七五〇ヘクタール、野附村々は二一〇か村に及んだ。東金市においては源地区に小間子牧(おまごまき)があり、清宮秀堅の「下総国旧事考」によれば、小間子牧は「縦横四里許リ、二総相錯ル、牝牡(めすおす)凡ソ一千頭、或ヒハ云フ、七百頭ト、毎歳生ズル所ハ上ニ同ジ、烙印(らくいん)ハ秤錘(しょうすい)ヲ以テ記ト為ス。其ノ駒ヲ捕フルノ地ハ則チ上総武射郡極楽寺ニ在リ。」(四三七頁)と記されている。近在の村々の農民は、牧周辺の土地を野銭場(のせんば)として堆肥(たいひ)用の雑草刈り、薪とりなどに金を払って利用したが、勝手にはいかず、利害もからみ、争いごとも多かった。小間子牧では滝沢村の今井清左衛門や佐倉の鈴木源右衛門が牧場の牧士として管理をまかされていた。近在の村々には、度々触れ書が出され、松之郷の小高家の「諸用留控帳」によれば……「去る亥年(文化一二年)御修覆仕り候笹引き土手、三ケ年請負ひの処、其の村々破損に付き、来る八日人足差出し、崩所相繕ひ此の廻状早々順達、留り村より野先にて我等方へ相返すべく候。
   (文化一三年(一八一六))
    四月廿五日
                    牧士 鈴木源右衛門
   松之郷
   中野村
   上泉村
    右村々名主中」(「東金市史・史料篇三」三二五-三二六頁)
 と野馬追いや土手普請など野附の村々からその石高に応じて差し出すことが定められており、この負担は農民にとっては大へんに重いものであった。ここでの馬は毎年秋になると二歳駒がとらえられ、幕府が使用するのはもちろんのこと、農民へも払い下げられた。払い下げる馬は役馬や農耕などに利用され代金は三年、五年あるいは七年賦で支払われた。
 各村々の明細帳を見ると、辺田方村、宝暦一〇年(一七六〇)「百姓持馬五拾疋、牛は無し。」福俵村、「享和二年(一八〇二)馬拾七疋、房州牛は無し、」というものや、広瀬村、家徳村では死馬捨場の記載もみられ、この地域において、当時馬が多く飼育され、農耕や荷役に利用されていたことがわかる。近くに馬産地があったことや、牛に比べて馬の方が用途が多かったことが、牛があまり飼育されなかった理由だとみられる。
 明治維新となり小間子牧は払い下げられるが、「山武郡郷土誌」によれば、「明治維新に際し、下総の諸牧民有に移るや、極楽寺村(今の源地区)の人猪野重之助といへる者有志者と相謀り、盛立社なる共同牧場を起して尋(つい)で明治一四年小間子牧の一部を購(あがな)ひ、独立の牧場を開きて其蕃殖(はんしょく)に力を尽したり……」(七五頁)とあって、源村においては、先駆的な人々により馬の飼育がうけつがれていった。事業は必ずしもうまく軌道にはのらなかったものの、この人たちの果たした役割は大きい。一方、牛については、明治末にホルスタイン種が導入され、主として乳牛用に飼育されてから広がったものである。また、地域の畜産振興を目的として、公平村松之郷に、大正元年(一九一二)、県立種畜場山武種付所が作られ、特に牛二頭を有して、一般の農家の需要に応じて種付をした。この当時の農家の畜産の生産状況は、大正二年(一九一三)の「公平村郷土資料草案」によれば、「養鶏ハ主トシテ採卵ヲ目的トシ、産卵数一ケ年約五千五百貫、其ノ価大凡八千円ニ達ス、牧畜業ハ未ダ特記スルニハ足ラズト雖ドモ、村内ニ県立種畜場ノ新設セラレタル以来、次第ニ畜牛養豚等ノ興ラントスル傾向アリ。」(「東金市史・史料篇一」八一頁)というように、公平村周辺においてはかなりの農家の間でも行なわれており、養鶏、鶏卵も出荷もされているが、酪農や養豚などについては、あまりさかんでなく、飼育頭数も少ない状況であった。