日吉神社には絵馬の寄進が多く、一〇点以上はあるようである。
その中で、
1 平忠盛が油法師を退治するところ。
2 能の猩々。
3 重盛諌言の図と思われるもの。
4 「しょうき」(鍾馗)と思われるもの。
5 登り竜。
6 中国の古画。
等々は大型である。しかし、絵馬のうちで、日吉神社の重宝とされているものは、
白馬の絵馬
である。これは狩野法眼(ほうげん)の画と伝えられている。横一・八二メートル、高札形で、高さは棟の所で一・二一メートルくらい、木板で周囲に七・六センチ角の縁を廻し、要所に鉄の装幀がしてある。絵は白馬一頭であるが、他は金箔をほどこしてある。胴長およそ一メートル、丈七五センチ位である。
伝説によれば、むかし神社周辺の畑が非常にあらされて困り、このためこの絵馬を奉納したところ、荒らされなくなったとのことで前には、絵馬をくさりで結んであったと言い伝えられている。
この絵馬が重宝とされているのは、狩野法眼の画と伝えられているからであろう。
狩野法眼といっても、狩野家の当主は代々法眼に叙せられているので、誰を言うのか詳かでないが、法眼の中、狩野重信(永徳)・守信(探幽)が最もよく知られているところである。狩野家は姓は藤原、二階堂出羽守貞藤の男兼藤より出で、三代景信が伊豆国加茂郡狩野邑に住んでより、狩野姓を称したという。始め足利将軍に仕え、後織田信長・豊臣秀吉に仕え、その後子々孫々徳川幕府に仕え、代々画家をもって名を知られている。
狩野三家、狩野五家といわれているように宗家中橋狩野、鍛治橋狩野、木挽町狩野を三家とし、駿河台家、濱町家を加えて五家という。
なお、「絵馬」はいつ頃からか、その始めは詳かでない。しかし、寛弘九年(一〇一二)六月大江匡衡(まさひら)が北野天神供物の中に色紙絵馬三匹とあることからこの時代すでにあったものと判断することができる。
もともと神社に馬を奉納(神馬という)したものであるが、これが不可能な時、木で馬を造りこれを献じたものである。力及ばず、それもできない場合、神馬の形を絵に画いて奉納することが絵馬の始めである。
後世、馬のみならず、鳥獣人形その他種々の物を画いて奉納し、合せて神前に願をかけたので、本来の意を失ったと言える。
広辞林には、「絵馬」とは、祈願のために奉納する馬の絵を画いた額で、馬のかわりに、神社仏閣に奉納するもの、転じて、「神社仏閣に奉納する絵の額」であると定義している。
付記
日吉神社については、本巻「宗教篇」の神社の項を参照されたい。