志賀吾郷著すところの「東金町誌」によれば、「安国山西福寺は伏見院日合上人開基に係る。境内一七五〇〇余坪。本山輪番上総十ケ寺の一にて、往古は末寺三十二ケ寺を有すといふ。
初めは天台宗にして、上総一国の総寺なり。今は京都妙満寺派顕本法華宗の巨刹なり。」(五九頁)と記されている。
この最福寺の寺宝として貴重な文化財が秘蔵されているが、その一つに「智者大師の画像」がある。これは縦四尺五寸横二尺五寸の彩色絹地に描かれたものである。
これについて、次のように伝えられている。
延暦二三年(八〇四)四月最澄は遣唐使藤原葛麻呂に随って唐に渡り、天台山国清寺において、僧道遽について天台の教旨をうけ、ついで興龍寺において、僧順暁から密教を学んだ。そして、翌二四年帰朝したのであるが、その帰朝の折、恒巽(こうそん)和尚は伝法帰国の餞別として最澄に智者大師の画像を贈って、永く供養をしてほしいと言われ、最澄はつつしんでこれをうけて帰国したという。
この画は呉道子の筆である。
讃は、知者大師讃 沙門洗銑述として、
入レ胎遑瑞 降誕流光
(胎ニ入ッテ、瑞ヲ遑(あらわ)シ、 降誕光ヲ流ス)
(体内に宿った時瑞兆をあらわし、誕生した時光が流れた。)
大蘇慧(けい)発 霊鷲(りょうじゅ)因彰
(大蘇ノ慧(けい)発シ 霊鷲ノ因彰カナリ)
(偉大な蘇軾のように賢く生まれ、霊鷲山との因縁も明らかである。)
戒洽(あまねく)二陳主一 香伝二晋王一
(戒ハ陳主ニ洽ニ、 香ハ晋王ニ伝フ)
(大師の戒律は陳の王にまであまねく、その香りは晋の王に伝わっている。)
弁才無レ滞 禅定(ぜんじょう)難レ量
(弁才滞ルコトナク、 禅定量リ難シ)
(弁舌はたくみで滞ることなく、精神を統一し真理を思索する力ははかり知れない。)
山妖息レ〓 水族停傷
(山妖〓ニ息(やす)ミ 水族傷ヲ停ム)
(山の妖怪も山ひだにひそみ、魚貝類もじっと傷を休める。)
能化既普 緇門(しもん)益昌
(能ク化シテ既ニ普ク 緇門益々昌(さかん)ナリ)
(大師の教えはあまねくゆきたり、僧門はますますさかんとなった。)
大師真影一躯
天台沙門恒巽奉二澄和尚一
願下帰二本国一永充中供養上
大唐貞元二十一年正月二十日記
と記されている。(この大意は後段に示す)
智者大師の画像
もし、最澄が持ち帰った画像が、最福寺のこの画像であるとすれば、(1)どうしてここに秘蔵されるようになったのであろうか。(2)国内のどこかに智者大師の画像が秘蔵されているかどうか。が問題になって来る。
(1)について、寺伝では、大同二年(八〇七)、宣伝祈願の記念として一宇を改修し、最澄の一字をとって最福寺と名付け、後年この智者大師の画像を届け永く保存し供養するように伝えたといわれている。また、一説には延暦寺僧の兵乱の折、兵火にあい烏有に帰すことをうれいて、これを西福寺に保存依頼したもので、そのため比叡山の台帳には記載はあるが実物はないと伝えている。(2)については未だ詳細な調査に接していない。しかし、鑑定の結果、本物であるといわれていると聞く。そうなると、これは国宝級の画像ということになる。
しかし、国宝指定にはなっていない。何故か。このことについて「房総金石文の研究」(篠崎四郎著昭和一七年八月一〇日発行非売品)には偽物と断定しているが、こうした点については更に調査を必要とする。
ところで、智者大師とは一体どんな人であろうか。「禅学大辞典」には、次のように紹介されている。
「智者大師は天台大師とも言い、名を知〓(ちげ)といって、五二八年に蘇州(湖北省)華容県に生まれ、隋の開皇一七年一一月二二日(五九七年)示寂、世寿六〇と言われる。
字は徳安といい、智者大師は煬帝(ようだい)からおくられた称号であり、隋の三大法師として、浄影・嘉祥と共にその名を今に残している人である。知〓は一八歳で出家、遊学し、南岳にあって法華経を誦し、薬王品の「是真精進、是名真法、供養如来」に至って法華経を最高位におき、般若、涅槃をその側においた。なお慧恩禅師に禅観をうけ、舎陵(南京)瓦官寺で法華経知度論を講じ、また禅観を教えて、陳の皇帝の信任を得たという。太建七年(五七五)天台山にこもって天台教学を確立したという。彼の思想は「法華経の精神と竜樹の教学を中国風に体系づけ実修しようとしたもので、五時八教の教判を確立したことで名高い。また諸経疏に独自の方法をたて、禅観による実修方法の止観を重んじた。」という。
摩訶止観、法華玄義、法華文句、次第禅門、維摩経玄疏、維摩経文疏など著書は多い。
また「世界思想教養辞典」には、次のように述べられている。
「中国隋の高僧、天台宗の開祖、〓州華容(湖南省華容県)の人。姓は陳、字は徳安、幼名は王道、普通に天台大師とか智者大師という。父は陳起祖、母は除氏。七歳にしてすでに仏典を誦するも、両親出家を許さず。一五歳で梁に仕官した。一七歳のとき梁は西魏と戦い、敗戦したため、両親も失い、ついに一八歳、果願寺法緒について出家した。さらに慧曠律師に律・成実を学び、坐禅も修した。
天嘉元年(五六〇)光州の大蘇山(河西省光山県南)にゆき、慧思禅師に仕えた。知〓はここで止観を学び、三論教学に通じ、達摩禅なども実修し、ついに法華三昧を発得して大悟した。その後三〇歳の時、陳の首都金陵(南京)にでて、八年間瓦官寺に住し、「法華経」などを講説した。しかし、北周廃仏の翌年(五七五)に天台山(淅江省天台県)に入り、一〇年間ひたすら修行した。この天台山における修行によって、かれの天台教学の根本が確立したといえよう。(以下略)。」
このような聖僧智者大師の画像を、餞別として贈られた最澄は、これまた伝教大師として、人の知るところの名僧である。
最澄は三津首百枝の子で幼名を広野といった。神護景雲元年(七六七)八月一八日に近江国滋賀郡古市郷(今の滋賀県)に生まれ、弘仁一三年(八二二)六月四日没している。
おくり名を、伝教大師、叡山大師、根本大師、山家大師という。
彼は一二歳の時近江国の国分寺行表について出家し、延暦四年(七八五)東大寺で具足戒をうけ、後比叡山に草庵をむすんで、修行した。延暦七年(七八八)根本中堂を創立し等身の薬師如来像を安置して、比叡山寺と称している。
早くから天台の教学に心をひかれていたが鑑真(がんじん)の持参した典籍を写す機会を得て、天台知〓大師に対する鑽仰の念を強めたという。
延暦一六年(七九七)内供奉一〇禅師の列に加えられ、翌一七年法華一〇講の法令、二〇年法華十講の講筵をひらき、二一年天台の教説を講演して、入唐の許可を得、二三年遣唐使に随って入唐、一年間の研鑚の末翌二四年に帰国し、二五年(八〇六)天台宗を開くことをゆるされている。
寺伝による大同二年は八〇七年に当たることから考えると、天台宗を開く許可を得た翌年になるわけで、この頃が最澄の仏法布教の時代といえよう。とはいっても、最澄が帰国したのは延暦二四年(八〇五)六月末のことであり、七月四日に朝廷に復命し、同一五日には「将来目録」という中国より持参した書物などの目録を提出している。九月一日、七日には高雄山寺に築いた灌頂壇で灌頂を修しているし、九月一七日は宮中で毘盧遮那(びるしゃな)法を修すという正に夜を日につぐの仕事に没頭している。
翌二五年も正月から多忙の連続であった。正月三日「将に絶えなんとする諸宗を続き、更に法華宗を加えんことを請う表一首」を朝廷に上り、正月二六日には太政官符が出されて、天台宗は一宗として認められた。最大の外護者だった桓武天皇は三月一七日になくなられ、年号は大同に改められているが、最澄年表によるとこの大同元年~三年は関係事項の記述は少ない。
弘仁五(八一四) 九州に赴く
七(八一六) 東国に赴く
八(八一七) 〃
の記事は年表より読みとれる。この東国とは栃木県・群馬県を指すようである。というのはこの二県に道忠という僧のグループがあった。道忠は若き日の最澄を助けた奈良の僧で鑑真の弟子である。この道忠門下の僧が多く比叡山にあったところから、その僧達と共にこの地を訪ね、群馬県の浄土院、栃木県の大慈寺に一級の宝塔を築いて、それぞれに「法華経」一〇〇〇部を書写して修めている。そのための旅であり、同時に道忠に対して勢力をはり、天台宗を批判していた会津勝常寺の徳一の様子を探った旅でもあったようだ。
大同二年から九年後の旅で、大同二年にはどのような経路を辿ったかはなお詳かでない。また、最澄の東国来遊が前記のとおり弘仁七、八年の両度とすると、大同二年の東金来は早すぎる感がある。そのへんのところは、多少の疑いを寄せたくなる。後考をまつよりほかはない。
智〓から最澄へと話題が進み、知〓の画像から離れたが、再び画像についてふれると、恒巽和尚が何という寺の住職だったか判明していない。順暁は霊巌寺の僧となっておりのち龍興寺に移ったとある。興隆寺とあるのは龍興寺の誤りであろう。
画は呉道子の筆とある。呉道子は呉道玄ともいい、唐代の画家で玄宗に召され、供奉となり内教博士を授けられ、宮廷の女官に技芸を教え、のち寧王友に栄進し、詔によらなければ画は描かなかったといわれ、人物、仏像、神鬼、禽獣等を描いて唐代第一と称せられている人である。従って、智者大師の画像が超特級の国宝であるというのもうなずかれるであろう。
とあって、大師の徳をたたえ、これを天台宗に帰依する恒巽和尚が澄和尚すなわち最澄に対して、「日本に帰ったなら永く供養されんことを願う」といって大唐貞元二一年(日本暦延暦二四年(八〇五))正月二〇日に贈っている。
帰国直前の出来ごとである。
これらを年表化してみると、次のようになる。