南天机(本漸寺蔵)

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 既刊の資料には、「本漸寺寺宝南天机--日乗上人がその友林羅山より贈られたもの」と紹介されている。
 その机は南天の板をつぎはいで作ったものという逸品である。元来南天の樹は大木にならない。その南天で作製された机は珍らしいというほかはない。
 しかも、本漸寺七世の住職養徳院日乗が、林羅山より贈られたということは、正に寺宝にふさわしいものと言えるが、その事実を証する資料はないという。
 種々の記録をたどって、これを年表にして見ると次のようになる。
 
年号 西暦 日乗 羅山
天正11 一五八三 羅山生る。1歳
慶長 3 一五九八 日乗生る。1歳
 〃 10 一六〇五 本漸寺住職日信に仕う
元和 4 一六一八 21歳 正親述聞五巻を撰む 宅地を江戸に賜う。36歳
寛永元 一六二四 27歳 家光の侍講となる。42歳
 〃 3 一六二六 日信寂す。日乗住職となる。
 〃 6 一六二九 己巳法華玄籖考拾記十巻その他若干書を著す。 民部卿法印に叙せらる。47歳
 〃 7 一六三〇 (寛永年間、宮谷檀林学頭となり子弟を教授す。尚東叡山寛永寺の経蔵に入りて研究す。) 羅山に忍岡の地を与え、昌平黌を開かしむ。48歳
 〃 16 一六三九 本山妙満寺住職輪番となる。権律師に任ぜらる。
 〃 19 一六四二 品川本光寺において宗門問答ありし折、家光の問いに対し日啓は「日乗をもって宗内無比の名僧知識」と答うといわれている。45歳 60歳
正保2 一六四五 四月二三日日乗寂す。48歳
中興の祖師と唱せらる。
明暦3 一六五七 一月二三日羅山死す。75歳

 この年表より考察するに、羅山と日乗は一五歳の年齢の開きを持つ。しかし、子弟の関係や、友人の関係は年齢差にあるのではなく、知識欲や学問への情熱にあると考える時、日乗と羅山は友人であり、学問を媒介として肝胆相照らす仲であったと思われる。
 その相会した時期は、日乗が上野寛永寺の経蔵に入りて学問を研究した頃、羅山を訪れたか、或は又寛永一九年(一六四二)の宗門問答の折、羅山と面識を得たか、いずれにしても日乗四〇歳台、羅山五〇歳台ではなかろうか。
 こうして学究日乗を愛した羅山が、日乗に自分の愛用の南天机を贈ったものと想像される。
 この日乗の父は市東刑部左衛門であり、今七曲り坂上のお林千部塚の墓地にねむっていることは別項「人物篇」記載の通りである。