養徳文庫(本漸寺蔵)

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 本漸寺第七世の住職日乗は、幼少の頃より学問を好み、難解の経典も数日にしてこれを記誦したという。
 特に研学を好み、業を修め、その名声は誰知らぬ人もなき程であった。しかも、若くして宮谷(みやざく)檀林の学頭として、大勢の学生に学問を教育する立場に立ったにもかかわらず、なお、研究をおこたらず、本漸寺の住職としての多忙の中に、江戸上野の東叡山寛永寺の経蔵に入って、仏書を友とし、仏教の奥義を究めて行ったという。
 こうした研究の成果は、ことごとく、書籍として残し、著書数十巻、遺書数百巻にも及んだという。
 又南天机の項でも述べた通り、林羅山を友ともし師ともして儒学の道も究めて来た日乗上人は、品川本光寺の住職日啓をして、「宗内無比の名僧知識は、日乗を以て第一とす。」といわしめ、将軍家光とも親眤(じつ)の関係にあったと言われている。
 正保二年(一六四五)四月二三日 享年四八歳をもって歿するのであるが、本漸寺においては日乗の謚(おくりな)「養徳院乾龍日乗」の名にもとづき、その著書遺書、関係書等をもって「養徳文庫」または「乾龍文庫」と名付けて長く保存することにした。
 昭和の初期まで、その山門に、黒ずんだ養徳文庫の木札が見られたが、今は取り去られて見ることは出来ない。
 なお、著書・遺書等は、和紙に墨書きの経典が多く、虫害・湿気等からこれを守る困難はかくせない。大分紙魚におかされたものも多く曝書も困難をきわめているという。
 この文庫のうち、数多くの図書が、徳富蘇峰によって読まれ、その名著「近世日本国民史」の資料にされたという。
 付記
  日乗およびその父市東刑部左衛門については、本巻「人物篇」の項を参照されたい。