法光寺には、山辺赤人の像、閻魔王の坐像が寺宝とされているが、もう一宝石がある。
この玉は、直径二寸(約六センチメートル)ばかり、質は水晶のような玉だと言う。
そのいわれについては、次のように伝えられている。
酒井定隆が長享二年(一四八八)五月一八日改宗令を出した当時、この法光寺は真言宗で西法寺といっていた。その西法寺の住職は、改宗令に従わなかったため、同年八月八日寺は破却されたが、そのあとへ、日泰が新寺を建立した。それが今の法光寺であるといわれる。
日泰は、酒井定隆が帰依した法華宗の名僧であるが、この日泰が愛翫していたのが前記の玉であり、彼はこれを高弟日行に与えたという。日行はやがて、師の僧の建立した田中の法光寺の住職となった。
当然日行はこの玉を大切にしていたが、日泰から戴き、日泰の建立した寺の住持となった因縁に感じて、この玉を法光寺の宝物として、長く保存することにしたという。
慶安年中(一六四八~一六五二)将軍徳川家光は、この法光寺に、寺領一八石を寄進し、維新後それは廃絶されたが、この玉は宝玉として今なお法光寺に保存されている。
付記
法光寺については本巻「宗教篇」の寺院の項を参照されたい。