徳川家康遺品(富家蔵)

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 八鶴湖畔の最福寺前の道路を谷区に向かって一〇〇メートル程進むと、門前に建つ「雲の上は、常に快晴」
という石柱が目につく。
 この石柱の立つ家、それは富正氏の家である。富家からは湖畔が一望に見渡せ、対岸には、鷹狩りの折に宿舎とした家康の東金御殿跡(現在県立東金高校)が見える。
 この富家に代々家宝とされてきた、タテ四六センチ、ヨコ九一センチ、幅四二センチのしっかりした桐箱がある。この桐箱は、葵の紋が書き込まれた黒うるし塗りの箱で、「神官代々一子口授」という江戸中期にかかれた「箱の由来書き」のついたものである。その由来がきには、
 
 「常盤御箱は、東照宮様御自身御勧請御箱にて、格前の御尊恵によって御封じ候あるゆえ努々(ゆめゆめ)拝見あるべからず。」
 
とあり、「常盤御箱」と称して、富家ではこれを大切に保管し、あけずの箱として、秘蔵して来たものであったが、現当主富正氏は、「このまま埋もれさせておいても仕方がない。家康研究の役に立てられるならば……。」と開封にふみ切ったという。
 昭和五七年(一九八二)一二月二三日の千葉日報は、
 
 「歴史のロマン秘めた御箱--家康史料が十数点……」「家康直筆の書状見つかる--東金市の旧家」
 
 という見出しで報道し、翌二四日から
 「家康〝出現〟東金・富家の秘蔵公開」
 として十数日にわたってこのことを報じている。
 話題の「常盤御箱」とは何だろうか。そして何故富家にあったのか。富家は、代々大神宮の宮司であった。当主正氏の曽祖父基寿氏が船橋大神宮の宮司を退き、その孫で正氏の厳父助一氏が東金にうつり住んで現在に至るのであるが、大神宮近くの常盤神社の宝物として奉納されていた「常盤御箱」を代々保管していたのを、宮司を退いた基寿氏が持っていて、助一氏が東金まで「祖先伝来の家宝」として持ち運んで来たものという。

(富家系譜)

 この「常盤御箱」に納められている主な史料は次の通りである。
すなわち
 
1 家康直筆の書状
2 家康を中心とした三人の肖像画=いずれも花押
3 関ケ原合戦直前の文書
4 家康が描いたと伝えられる鳥の絵
5 武人の絵=墨絵
6 万葉和歌
7 秀忠が書いたと伝えられる手習いの書
8 家康使用と伝えられる枕槍=来国光作
9 船橋御殿周辺の図面
10 葵祭りを描いたとみられる彩色画
11 天皇から富家への神官委嘱状
12 天皇御璽(ぎょじ)の入った累系図
13 家宝の由来を記した口授文書
 
 等々であるが、この鑑定に当った駒沢大学所理喜夫教授や県史編纂室の川村優室長、東金市史編集委員長柴田武雄氏は、「慎重を期して、あらゆる角度から鑑定した結果、九〇パーセント以上は真筆といえる。本物に間違いないと考える。」といい、財団法人徳川黎明会=徳川美術館、徳川林政史研究所=の専務理事であり美術館長である徳川義宣氏(家康の直系であり家康研究の権威者)は、「本物に間違いない。年貢皆済状など全文家康の自筆によるもので非常に珍しい。」と断定している。
 その他、「家光の絵」「五代綱吉の書」「四代家綱の絵」などあり、全国に一つしかないと推定されるもの、全国で五点目であると認定されたものなどあって、家康研究・江戸時代史研究のための貴重な史料たることは疑いをいれない。