幸田の獅子舞(羯鼓舞)

843 ~ 844 / 1145ページ
 幸田の獅子舞の起源についてはよく分からないが、この舞に用いる獅子頭に享保六年(一七二一)の銘があるところから、その頃からはじまったらしいといわれている。ところで、幸田には幸田橋という徳川家康ゆかりの橋(家康が鷹狩に来た時、そのお声がかりで建てられたという)があり、これは朱塗りの立派なものだったが、その後破損したので、幕府は下総生実藩主森川出羽守俊胤に修理を命じた。生実藩は一万石の小藩で俊胤は森川家四代の当主で元禄五年(一六九二)に藩主となっている。俊胤はみずから部下をひきつれて幸田に乗り込み修復にあたった。それが完成した時、村民も大いによろこび、祝賀の祭をやったらしく、「幸田橋よば誰が架けた、あれは森川出羽守」という歌謡がうたわれたといわれるが、その際獅子舞が催され、それ以来盛んになったという話である。もっとも、獅子舞そのものはその頃幸田に滞留していた、演芸に堪能なある座頭が伝授したという伝承がある。
 さて、この獅子舞は羯鼓(かっこ)舞ともいわれ、獅子頭(かしら)(木造黒塗長方形で、後頭部に軍鶏(しゃも)の羽毛をさし、垂れ布をつけたもの)を冠り、はなやかな襦袢・軽袗(かるさん)を着て、腹のところに小太鼓をつけ、三人(おす獅子、めす獅子、中獅子)が一組となって舞うのであるが、採物(とりもの)には幣束(へいそく)、神楽鈴、刀を用い、囃子(はやし)は篠笛・横笛(おうてき)・締太鼓・小鼓・大鼓(おおかわ)・鉦(かね)(ちゃんぎり)で演奏した。舞の曲目は四つあった。宮参り・シャーブウラ・辻切り・ふりこみの四つである。宮参りは地区内の神社の神前で舞うもの、シャーブラは本光寺と各民家で悪魔払いに舞うもの、辻切りは村境で悪霊を退散させるために舞うもの、ふりこみは村廻りの時舞うものである。
 この舞を行なう祭は、もとは旧暦九月一九日となっていたが、今は一〇月中下旬の日曜日に改められた。祭の当日は、朝、祭事関係者が本光寺に集まり、演技者は仕度を整えて、本光寺で先ず舞い、それから、八幡神社・熊野神社・水神社の順に神前で舞う。次に各戸廻りに移るが、これは下幸田からはじめる。その際は土足のまま各戸の座敷に上がって舞い、舞いおわると幣束を立てる。その後は、広瀬境・家徳境・堀上境・川場境・上谷境・押堀境・北幸谷境の七か所で辻切りを舞うが、それが終ると幣束を立てる。以上の道中をする時には、中山・尻振(しりふり)・四ケ崎(しかざき)・四丁目などのはやし曲を演奏するのである。こうして回礼がおわると、一同本光寺へ引上げ、花納めをすることになる。昔は村廻りをするのに三日を要したというが、今は一日で終了することになっている。
 東金市内で行なわれる獅子舞は、ほかに北之幸谷・表谷(別項参照)のものがあるが、そのやりかたはおおむね大同小異ではあるものの、辻切りのような舞は幸田だけである。なお、昔は夏の虫送りの際にも辻切りを舞ったという話である。(「東金市文化財指定理由書」を資料とした)