夏越(なご)しの神事(武射神社)

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 これは、東金市下武射田にある古社、武射神社において古くから行なわれている神事である。「夏越し」とは、陰暦では四、五、六月が夏であるが、六月三〇日は夏のおわりであり、翌七月一日からは秋になるから、六月三〇日を「夏越し」と称したのである。また、この語は「夏越しの祓(はらえ)」の略語ともなっており、この日宮中や各神社で、一年の半分の区切りの日として祓(はらえ)を行ない、半年間の汚れを払う厄よけの行事を行なった。それが、「夏越しの祓」なのである。武射神社の夏越しの行事は、要するにその「夏越しの祓」なのである。武射の地には、上古、国造がおかれていて、武射神社は国造時代に創建されたとされ、その後も王朝時代の上総国守平高望や戦国期東金地方を支配していた酒井氏の崇敬を受けていたといわれる。当社の伝承では、慶長一二年(一六〇七)徳川氏によって社殿の改築が行なわれたと伝えられる。夏越しの神事が何時(いつ)頃から行なわれたか、はっきりとはしないが、社伝では慶長年間には催されていたものとされている。祓は外患を除き内憂を去り、五穀豊穣・家内安全を祈願するものであるが、当社ではその行事を全国各社と同じく、毎年旧六月三〇日に行なうことになっている。その時の状況を「東金市文化財指定理由書」は、次のようにのべている。
 
 「神事は上下武射田の両区長・総代人・前総代人等多数参列の上、神官によって進められる。前日役員によって用意された浅茅(あさじ)の大輪は大鳥居の中央に吊(つる)され、小輪は神前に置かれる。参詣者は大鳥居の輪をくぐり、拝殿に来て茅麻(ちょま)の幣(ぬさ)や撫物(なでもの)(人形(ひとかた)の切り紙)で身体を清められ、参拝後、お札やお神酒(みき)をいただくならわしである。昇殿者は神前正面の真菰(まこも)の茣蓙(ござ)に正座し、左右の介添人があげる輪をくぐり進む時、介添人は声高く、
 
   水無月(みなづき)の夏越しの祓(はらえ)する人は
     千歳(ちとせ)のよわひ延ぶといふなり
 
 の和歌を二回朗詠する。その間に玉串を奉奠(ほうてん)して退座し、昇殿者全て終れば、神事も終了となり、一同神酒をいただいて退散するのである。しかし、役員は更に当日使用された玉串・輪・撫物を取りまとめ、これを神社の前を流れる作田川畔まで搬出し、川に流すいわゆる『みそぎ祓え』の神事を行ない、一切完了となるのである。」
 
右の輪は関西では茅(ち)の輪という。茅はちがやのことで、それの丈けの低いのが浅茅である。茅ないし浅茅でつくった輪(関西では竹をシンにしてつくる)をくぐるのは、身の不浄をはらい疫病を除くためである。なお、一説によると茅の輪はヘビを形どったもので、ヘビは水神とされていたから水神祭りとの関連があるともいわれている。
 ところで、武射神社のばあいは、割竹を輪にして、それに浅茅を色紙テープで巻き、二〇センチおき位に麻の葉を着けて仕上げることになっている。そして、大鳥居の中央につるす大輪は直径二メートル、神前におかれる小輪は直径一・三メートルの大きさに作る定めになっている。次に、人形(ひとがた)というのは、人間の罪・けがれを人形に移し負わせるというもので、これは元来はワラで作ったものだが、その後紙づくりにしたようで、あらかじめ役員のほうで用意して各家庭にくばっておく。各家庭ではそれに家内一同の名を書いて、当日持ってくることになっていた。
 このような神事は、北九州地方や中国の山口県地方に流布しているようなので、西国から渡来してきたものと考えられる。また、この神事はやはり農業と深い関連があったものらしく、昔は、武射でもこの祭を機として、他部落との間に種籾の交換などが行なわれ、馬匹改良の相談事などもあったと伝えられているのである。
 付記
  武射神社については、本巻「宗教編」の神社の項を参照されたい。