油井古塚原古墳群

862 ~ 864 / 1145ページ
 油井古塚原古墳群は、東金市油井古塚原と丑子台に存する。
 ここは東金より千葉に通ずる国道一二六号線を京成バスで向う途中、「雄蛇湖入口」というバス停で下車、右手台地の縁辺の農道を北にとると、約一〇分程で台地に達することができる。この台地が古墳群のある古塚原で、標高六〇メートル程の平坦な所で、その中央を御成街道が東西に貫通している。
 一部山林のところもあるが、殆んどが畑地になっている。
 この古塚原古墳群については文化財審議委員会の報告書「古塚原古墳発掘調査予報」がある。これによると、油井から道をとって古墳のある台地に至り、御成街道を確認した時、
 
「御成街道の北側には、前方後円墳三基が分布し、その南側には、前方後円墳四基と円墳一六基が数えられ、さらに南方に突出せる舌状台地上に円墳六基が点在する。蚕糸センターの敷地にかかる古墳は、御成街道の南側と舌状台地の基部にはさまれた地域であって、七号墳から二四号墳までの都合一八基が該当したが、結局、発掘調査の対象となった古墳は、七・八・九・一一・一三・一四・一六・一七・一九・二二・二三・二四の一二基(そのうち一九のみ前方後円墳で他は円墳)であった。しかしながら、実際には耕作のため、墳丘を留めぬ程に削平された古墳も見られ、主体部の存在の明らかでないものは、周湟(しゅうこう)調査のみで終了し、一方古墳営造以前の竪穴住居址一を完掘した。」と述べられている。
 その後の調査で、この地域の古墳は、計四二基を数えているが、そのことは、「東金市の古墳(東金市教育委員会編、昭和三六年一二月刊行)」に次のように図示表化されている。

 

 
古墳番号 形式種類 大きさ 備考
長さ直径 高さ
1 22m 15m
2 19 0.8
3 24.5 31
4 15.5 11
5 13.5 0.9
6 35 22 山林
7 18 14
8 13 0.3
9 15 1
10 12 0.5
11 42 32
12 20 22
13 12 0.6
14 21 15
15 23 19
16 21 11
17 12 1
18 12 32
19 前方後円 39 2.5
20 前方後円 33 28 一部裾削られる
21 11.5 1.5
22 23m 19m
23 17.5 19
24 15 0.5
25 前方後円 39 2
26 前方後円 34 3.8
27 18 18
28 25 38
29 20 13
30 前方後円 43.5 29
31 26 2
32 不明 1
33 21 2 山林
34 23.5 2 山林
35 23 1
36 33 1.5
37 18 0.5
38 19 1.8
39 37 3.8
40 前方後円 43 3.4
41 前方後円 31.5 33
42 16.5 1.7

 すなわち、この図でわかるように
 
「油井古塚原古墳群のあり方は、古墳群のほぼ中央に当たる御成街道をはさみ、前方部を西に向けて併列した状態で営まれ、これら前方後円墳をとりまくように、三五基の円墳が点在営造されている。
 そして、前方後円墳の各々が、比較的近距離に存して、しかも矮小化された古墳からなっている事は、後期群集墳の性格を充分にそなえる古墳群として特筆される」
 
 と文化財審議委員会の発掘調査予報にあるが、六-七世紀の後期古墳時代のもので、奴婢を所有する家父長とその家族の墳墓として形成されたものであろうと推察することができる。
 図の19号前方後円墳は、全長約四五メートル、前方部幅約二五メートル、後円部径約三〇メートル、同高さ約二・五メートルというものであったが、二重周湟をそえていたが石室・副葬品は発見されなかったときく。
 中央の11号円墳は、最大のもので、ここには、すぐれた石室副葬品があって、極めて対照的で、その意外さに調査員一同一驚したといわれている。
 一一号墳からは、副葬品として、
○環頭大刀・直刀・鏃(やじり)・金環・琥珀(こはく)玉類の葬身具・轡・坩抔盤等須恵器が検出され、特に環頭大刀は全長八四センチ、金銅製の単竜を肉厚、透彫りにした環状の柄頭(つかかじら)と柄頭は刻目のある銀線を巻いた優秀品であったという。
 学術的に興味ある発見もされたようであるが、当時「岡山郷」といったその中心部は、この古塚原であったのであろうか。