小金井古墳は、東金市家之子字小金井にある。
発掘したのは、家之子古墳群の一つで五一号墳と名付けた円墳である。
昭和三六年(一九六一)一二月発掘手続きを済ませ、東金高校考古学クラブおよび東金市郷土文化研究会員が作業に従事したのである。
日吉神社宮司高宮氏を招いて、鍬入式を行ったのが二四日、それから二六日までの三日間の作業で、その全貌を明かにしたのである。
古墳は、畑地にあった。その関係で、整地のために、裾の部分が大分崩されたことは明らかであるが、大きさは直径一一メートル、高さ約一メートルの小古墳であった。
発掘の進展に伴って、石室が露われたが、墳丘の最高点直下ではなく大分南西よりの地点であったが、その長さは約四メートル、石室の内規は約二〇センチで、三〇~四〇センチ程度の角岩で積まれていたと記録されている。
石室内に見られる石棺や副葬品の発見に大きな期待をかけての発掘も、遂にそれらを発見することが出来ず、石室外にあった矢じり五個と土器破片若干の出土品に終ったが、貴重な遺物として、これを保存することにした。ここで付記するが、同志社大学文学部教授森浩一氏によれば、
「古墳とは ① 墳丘があること。② 屍を棺や槨(棺をおさめる施設、粘土槨や竪穴式石室がこれにあたる)にいれる。③ 副葬品があること。
の三点が基本的条件であるという。また
「人類が埋葬を始めたのは、旧石器時代に遡(さかのぼ)る。その時代は、墓穴を掘って、屍を土や石で覆い、人間の眼からも鳥獣の目からも遮断したものであるが、縄文文化の埋葬は、墓穴を掘って、手足を極端に折りまげた姿勢で屍を埋葬していることが多い。これが屈葬であり、その埋葬の遺構を墳墓とよんでいるが、埋葬地の上に盛土をしたり、石を置いたりして、他の土地と区別することはまだなかったようである。
やがて弥生式墳墓になるが、この頃は、屍を墓穴の中に直接埋める場合もあるけれども、甕棺、壺棺、木棺、箱形石棺などの棺に収めて、それを墓穴に埋めることが多い。しかし、地上に大きい盛土をした例はなく、墳墓とよぶのが普通で、原則として古墳とはいわない。
この「墳墓」と「古墳」との相違点は、複雑であるが、これらを区別する一つの点として、屍処理に必要以上の土地を死者に使わせ、しかもそれを永久に占有させている点であろう。」
ということである。