願成就寺(かんじょうじゅじ)の枝垂(しだれ)桜

869 ~ 870 / 1145ページ
 昭和五八年(一九八三)三月二七日、小雨降りしきる中に、願成就寺境内にぞくぞくと人がつめかけた。まだ桜には少し早い--というよりも、この年は寒波が襲来し、開花が大分おくれたといってよい。
 それらの人々は、地面まで垂れ下っている桜の枝を払いながら、急造テントの中の僧侶の読経をきいた。
 これは枝垂桜をよんだ鈴木康文氏の歌碑の除幕式風景である。
 歌碑には、次のような歌がきざまれている。
  今もなお
  願求成就に
  咲く桜
  三百年の
  枝垂れ地につく
        康文
 
「公平村郷土資料草案」(大正二年公平小学校長田中保三郎編纂)には「願成就寺」について次のように記載されている。
 
「松之郷区字願成地ニアリ、建長年中、北条長時ノ古賀城(久我城)ヲ築クヤ、曽祖時政ノ偉勲ヲ偲ビ、寺ヲ建テテ其ノ霊ヲ吊(とむら)ヒ、号シテ同夢山願成就寺ト云フ。蓋(けだ)シ時政伊豆ノ北条ニ死スルヤ、願成就寺ヲ建テテ子孫ノ冥福ヲ祈リ又自ラ願成就院殿ト号シタルニ由ルナリ。
 今残存スル所ノ堂宇ハ、規模甚ダ狭小ニシテ、殆ンド見ル影モナキ有様ナレドモ、其ノ地形境内等ヨリ察スルニ、当時ノ隆盛ヲ想見スルニ難カラザルナリ。今寺前ニ老桜二株アリ、枝梗(しこう)垂下シテ庭前数十歩ノ間ニ広ガリ、中春花信頻リニ報ゼラルル頃ニ及ベバ、遠近〓(つえ)ヲ曳クモノ絶エズト云フ。境内ニ墓地アリ、苔蒸シ果テタル古風ノ墓石三基ヲ認ム、今唯ダ呼ンデ三介ノ墓ト称スルモ、コレ実ニ長時・久時・守時三代ノ墳墓ナリト云フ。今顕本法華宗ニ属セラル。蓋シ文永元年(一二六四)五月改宗シ、僧日誦ノ開基セラルルモノ是ナリ。」と。
 この桜樹、大正二年(一九一三)にすでに老桜の呈を示していたわけだが、いつ誰が植えたかは定かではない。しかし、歴代住職や檀信徒一統の手厚い愛護のもとに桜は植えつがれて長い歴史をへて今日に至っているわけであり、その老木は少なくとも三百年の星霜を過して今日に至ったと見ることが出来よう。
 だからこそ、鈴木康文氏が、「願求成就に咲く桜、三百年の枝垂れ……」とうたい、植樹も誰かの悲願がかなって咲きほこると歌いこんだと聞く。
 品種は「江戸彼岸」の変形で、「姥彼岸」あるいは「東彼岸」と呼ばれ、関東を北限に、関東以西に多く分布しているという。
 東金市教育委員会は、昭和五八年一〇月一四日これを天然記念物として指定した。(指定第一三号)その「指定理由書」には「この桜が植えられたのは、かなり昔のことである。現在の枝垂桜は明治四年(一八七一)の前にあった古木『大桜』の跡目として栽植された枝垂桜である。途中悪戯火(いたずらび)に遭(あ)いながらも奇蹟的に息を吹き返し、今もなお春の魁(さきがけ)として、万朶(ばんだ)の紅雲を境内に繁らし、多くの人々を楽しませている。この枝垂桜の樹高は六メートル、目通り二メートル、幹は西南へ三〇度傾き、枝の広がりは約五〇平方メートル。分枝は無数に長く垂れて地を嘗(な)めんばかりに這っている。品種は『江戸彼岸(ひがん)』の変形で、『姥彼岸(うばひがん)』あるいは『東彼岸』と呼ばれ、関東を北限として、関東以西に多く分布しており、房総では下総台地・上総丘陵のローム層地帯に多く見られる。」と書かれている。

しだれ桜