鰐口(わにぐち)(安国山最福寺蔵)

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 鰐口とは、「仏堂の前の軒にかけつるす銅製の伝具。平たく丸く、中が空で、下方に横に長い口のあるもの。その前に布で編んだ縄をつるして下げる。おがむ人がその縄を振り動かして打ち鳴らす。ごんぐ。」と「広辞林」に説明されている。
 最福寺の鰐口は、天文年間(一五三二~一五五五)の作として東金市文化財指定候補物件として注目されている。
 これについて、「房総金石文の研究」(篠崎四郎著、昭和一七年八月一〇日発行)にある「房総金石文年表」に東金市関係の三この鰐口が記されているので摘記させてもらう。
 
東金市内鰐口一覧(篠崎四郎氏による)
番号 年号 品名 材質 法量 銘文 所在地 備考
332 1486 鰐口 上総国菅生荘椿長谷寺 山武郡東金町最福寺 今亡「大地名」
文明十八年丙午極月吉日
392 1549 鰐口 八幡宮鰐口之事 山武郡東金町最福寺 今亡「大地名」
東金池袋嶺根寺松戸平四郎寄進
天文十八年巳酉二月
339 1551 鰐口 径二尺五寸 奉寄進上総国山辺庄最福寺常住 山武郡東金町最福寺
      日繁時代
天文廿年辛亥拾月吉日題目講一結衆
           大工家長

 
(1 右の表中年号は皇紀が示されているが、便宜上西暦に直しておいた。
2 菅生荘とは鎌倉時代からあった荘園で、上総国望院に属し、荘域は木更津・矢那・長須賀・大寺にわたっていた。今、木更津市の大字にその名を残している。
3東金池袋とは東金市谷八鶴湖の北方、山間の地に小字池袋が遺っている。
4 山辺庄とは旧山辺郡と武射郡に跨る相当広い地域を云った庄名と考えられる。
5 大工家長については、その生国、年代等一切不明である。)
 
 なお、この番号三三二、三九二の二つの鰐口は、備考にある通り、昭和一七年(一九四二)にすでになくなっている。したがって、最福寺に現存する鰐口は三九九に該当するものであろう。これは天文二〇年(一五五一)最福寺第二世住持日繁(天正一五年(一五八七)六月二七日入寂)の時に、題目講の人々によって寄進されたものと見てよいであろう。天文二〇年といえば、織田信長が家督をついだ時であり、足利十三代将軍義輝の時代である。なお今はない三三二番の鰐口は文明一八年の銘があったというが、文明一八年は一四八六年で天文二〇年より遡ること六五年ということであるから、これが存在したら更に貴重な鰐口ということになるが、その亡失事情については知ることが出来ない。