1 故人の偉業を刻した顕彰碑・頌徳碑
2 国家のために死んだ人々を表する忠魂碑
3 道行く人の指標として立った道標
4 旅人の安全を祈って建てられた道祖神
5 一事業の経過や竣工を記した記念碑
6 落歯塚・木刀塚・筆塚等に見られる石柱碑
7 詩・歌・句・名言等を刻した文学碑
などが挙げられる。
これらの碑が、たてられているのは、名勝地・旧蹟・墓地・神社仏閣の境内・道端・公園等さまざまであって、東金市内にも随処に多くの碑を発見しうるのである。
台方に立つ頌徳碑
家之子の道祖神
八鶴湖畔の忠魂碑
この一つ一つについて、詳細に記述しておくことは至難であるので、市内を走る幹線の一部ではあるが、その分布と概要について、記して、後学の資としたい。
分布は一二六号線(国道)一二八号線(国道)東金・片貝線(県道)附近の石碑である。
この分布図を見てわかるように、
1 道祖神・道標・馬頭観音等は、旧街道筋に残存している。
2 文学碑は、名所・名勝地または碑に関係する人の生地または墓地等に多く見られる。
特に八鶴湖畔は小川一郎氏が、その所有する御殿山を「碑林」として、歌碑・句碑・詩碑および言志録碑等を集中的に建碑している特殊性をもつ一角である。(別項参照)
3 像は三体を数える。中央公園の関寛斎、両総土地改良区事務所前の能勢剛、最福寺境内の日蓮聖人の像である。(地蔵様は含まない。)
4 記念碑・表忠碑・頌徳碑等は、神社・仏閣の境内に多く、旧跡や墓地などにもかなり発見することができる。
公平中学校跡
火葬場附近の道標
最福寺・本漸寺にたつ句碑
これらの建立年は、別表の通りであるが、江戸時代あるいはそれ以前のものは、寺の門前碑や道祖神等を除いては、ごく少数であり、殆んどが明治以降のものである。
江戸時代以前のものも相当建っていたとは思うが、長い年月の間に倒壊したり埋没したり、崩壊したりして取り捨てられたものも多いようだし、明治以降のものには、日清・日露・第二次世界大戦の犠牲者の霊をとむろうものが多い。また御大典・御成婚にかかわる祝賀の碑が随所にあって、挙国一致、国威宣揚の気運がひたひたと押し寄せる感がする。
門弟子がその師恩を感じて建てたものも多い。
いずれにしても、この限られた地域だけでも分布図に示す通り百数十基を数えるのであるから、市内の石碑石柱の数は相当数多くあると推測される。全地域の分布については今後の調査研究にまちたい。以下分布図にある石碑石柱の概略を記す。