志賀吾郷氏の「東金町誌」によると、
「泉ケ池は日吉神社の山麓にあり。面積四千坪(約一三二〇〇平方メートル)。伝に云ふ、往古和泉某の女此の池に投身、其の怨霊(おんりょう)蛇体となりて現はると。地名之れに因る。」(七六頁)
と書かれている。
その昔、堀上の方に和泉どんという大金持が住んでいた。
ある年、それは日照り続きで、草木はどんどん枯れ、人々は雨乞いしたり、水を求めたりしたが、日増しにひでりの害は拡大するばかりであった。
和泉どんは、東金や嶺南(堀上も含む)や城西の守り神だった日吉神社に詣で
「どうか日照りの害からお守り下さい。もし、この害からお守り下さって、収穫があげられましたなら、娘を神様に差上げます。」と深々と頭をさげた。
日照りはその後も続いたが、和泉どんの田は青々として、秋には重い稲穂が風にゆれた。
大喜びの和泉どんは収穫が終って、うず高く積まれた米俵を見上げていた。
いつか、神様との約束を忘れてしまっていたが、冬になった頃、娘は熱を出して寝込んでしまった。「医者よ、薬よ。」と八方手をのばして看病したが少しもよくならない。
ある日、娘は、
「やつの池の水がのみたい。」
と言い出した。やつの池とは、日吉神社の裏にある大きな池だった。
和泉どんは、娘の求める水を汲みに行かせようとした時、高熱にうなされている娘は、
「私をつれて行って。思う存分飲みたいから。」
というのである。仕方なく、娘をかごに乗せて池辺までつれて行った。
娘は、水辺で手をのばし、如何にも水を飲む様子に見えたが、何思ったか、いきなり、ザンブと池の中に飛び込んだ。
みんなは、「あれよ/\。」とうろたえるばかりだったが、娘は水中深く沈んでしまった。
和泉どんが、正気(しょうき)にかえった時、娘の沈んだあたりに一匹の蛇が浮き出て、水の上を走るようにおよいで、日吉神社の方に進んで見えなくなってしまったのを見たのである。
それから、この池を和泉が池といい、底知らず池と呼ぶようになったと今に伝えられている。
志賀吾郷著「東金町誌」泉ケ池の記述の中に「安国山古霊簿」には次のように記されていると述べられている。
「和泉某の女子、色欲熾盛(しせい)、慳貪(けんどん)最深、現身(うつしみ)蛇体となって池中に居住し、人民を呑蔽(どんへい)す。之を悲しまざる族一人もなし。為に大蛇を降伏して、世を利し、民を安んず。将(まさ)に神殿を今の地に遷(うつ)して(山王台にありし山王権現を現在の泉ケ池の頂嶺に遷す)神力世を救ひ、蛇身忽ちに滅す云々。爾来(じらい)年を経、落葉堆積葭葦(たいせきかい)繁茂 凄愴(せいそう)を極む。旱天(かんてん)と雖(いえど)も渇(かっ)することなし。その深さ測り知るべからず。『泉ケ池の底知らず』とて東金名所の一なりき……。」(七六-七七頁)
第二次大戦前は東金町の貯水池として満々と水をたたえていたが、今は山王台の開発に伴い埋没し、昔の面影を偲(しの)ぶよすがは全くない。