墨染(すみぞめ)桜

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 丘山村山田(東金市山田)に貴船神社というお宮がある。〓〓草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)、豊玉媛尊(とよたまひめのみこと)を祀っているが、これは鎌倉時代、西行法師が当地へ旅行の折、生国とその名を同じくした山田に懐しさを感じ、京都の貴船神社の神霊を祭り、その後、現在地に移したものと云われている。
 この時の話である。
 西行は、山城の国深草の里にあった墨染桜の杖をついて来た。この墨染桜は由緒ある霊木(れいぼく)であった。西行はその杖を大地にさしこんで一休みした。(一説にはここに庵を結んで、しばらく住んでいたともいう。)
 立ち去る時、その杖に、
 
 深草の野辺の桜木心あらば又この里に墨染に咲け
 
という歌を添えて行ったという。
 西行が山田を去って春がめぐって来た。
 すると、その杖から芽が出て、やがて花を咲かせるようになったが、その花は不思議なことに始め紅の花で、日が立つにつれて白い花となり、しまいには黒色となり、しかも不思議なことには、その黒色の花は風が吹いても散ることなく、いつしか緑の葉が一杯につくのである。
 本当に珍らしいこの桜、里人たちはこれを墨染桜として手折ることなく、大切に守って来たという。
 荒川法勝編「房総の伝説」には、西行が関東を旅行したのは二回ある。その第一回は彼が三〇歳の頃、久安三年(一一四七)であり、第二回は六九歳に達した文治二年(一一八六)であると述べられている。
 この墨染桜の話は第二回の旅の途中のことであり、山部赤人小野小町の遺跡を尋ねて来たもののようである。
 西行は生涯の歌作は二〇〇〇首余りといい、その一割以上は桜の歌だという。
 建久元年(一一九〇)二月一六日、彼は年七三歳で死ぬのであるが、有名な辞世
 
 願はくは花の下にてわれ死なむそのきさらぎの望月のころ
 
という歌もまた桜の歌であった。