この地方に珍らしい平地城に「大関城」がある。この城は畠山重康という武将の城であったが、東金城主二代酒井隆敏によって攻められ、城兵は防ぎ切れずに落城したといわれている。
府馬清著「房総の古戦場めぐり」には、次のように記されている。
「『上総国誌』によると、隆敏は城を囲む深い泥に悩まされたといわれる。正門に通ずる道は狭くて、軍勢を進めかね、隆敏は石橋三左衛門、栗原兵郎亮らの部下と協議して、忍者を城内に放って、守将今関勘解由(かげゆ)・山岸主税(ちから)と内通し、その二人に叛心をおこさせた。
山岸主税は重康が午睡(ごすい)しているすきに、刀を抜いて、
「お覚悟」と斬りかかった。
重康が眼をさまし、主税が刀をふりかざしているのを見ておどろき、
「こ、これ、山岸、乱心したのか。」
いった瞬間、主税の刀が銀弧を描いてひらめき、重康の肩先に深く斬りつけていた。
重康が呻(うめ)きながら倒れたところを、主税はおどり込んで、重康の首を斬りおとした。
その首をたずさえて、主税は酒井隆敏に降ったのである。」(七六-七七頁)と。
大関城址は、東金市依古島にある。東金駅から豊海経由片貝行きのバスに乗車、広瀬で下車して、一・五キロメートル歩くとこの城址に着くが、城は砂丘を利用して築き、周囲の水田より二メートル程高くなっている。
本丸あとには大関神社、大関城公民館、人家などがあり、その北方に二の丸があったらしい。
この城は元久二年(一二〇四)畠山重忠の一族によって構築され、その後二〇〇年程たってこの伝説に出る重康となる。
重康は二万八千石を領有し、土気城主でもあったが、中野城主酒井小太郎定隆におわれて、長享二年(一四八八)土気城をすてて、この大関城に走ったという。
東金市上谷(うわや)字番場の常福寺境内に小さな祠があり、「玄勘大聖人」と称する僧形の像が安置されているという。
里伝によると、畠山重康は大永六年(一五二六)一二月二〇日、大関城からのがれて来て、この地で自刃したので、里人これを葬ったといわれている。この玄勘大聖人という像はもと甲冑をつけた武人だったのを、いつの頃か、僧体に改めたともいわれている。