昔、酒井小太郎定隆(後の東金城主)という人がいた。
仕官する主人を求めて、品川港より船に乗り、安房の国に渡ろうとした。
その日は、めずらしく晴れた日で、波はなく、船は畳の上をはしるように進んだが、海上三里ばかり進んだ時、一天にわかに曇って、その上風さえ吹き出し大嵐となってしまった。海は大波をたて、船は上下左右にゆられて、今にも沈没するのではないかと思わせることが度々であり、船中の人々は、あまりの恐ろしさに、「あれよ/\」と泣き叫ぶばかりであった。
この船に一人の僧がのりあわせていた。
彼は、船の舷頭(げんとう)に立って、神に祈り、そして合掌(がっしょう)し、静かにお経を誦(とな)え始めたのである。彼の口から誦せられたのは、安房の国に生まれ、一宗派をとなえた日蓮上人の法華経の経文であった。
船中の人々は、異口同音(いくどうおん)に、僧に和して唱えた。ただ祈るより他に何することもできなかったのである。
「南無妙法蓮華経。」
「南無妙法蓮華経。」
その声は一つになって嵐の中に消えて行ったが、その為か、さしもの海波もやがておさまり、海上は平静になって、船中の人は、ほっと安堵の喜びの色を見せたという。
酒井小太郎定隆は、その僧の容貌を視て、これは普通の僧侶ではないのを知り、彼に語りかけた。
「今、師の法力に依り、万死を兔(まぬか)る。願わくは我輩武運長久の術を得ん。」
と。するとその僧は
「妙法の信仰こそ、武運隆昌、所願満足ならん。」
と答える。定隆は大変喜んで、
「吾若し、功成り望みを達せば、必ず今日の報恩に、領内を悉く改宗せしめん。」
といって、その僧より受戒し、法華経を唱えたという。
やがて、浜野(千葉市)でその僧とわかれた定隆は安房に渡り、里見義実に仕え、後中野城主から土気城主となり、さらに東金城主ともなるが、この時の前の約束に従って、浜野で別れた僧--日泰上人を浜野村より土気に招き、城中に一寺を創建した。これが本寿寺である。
長享二年(一四八八)五月一八日定隆は領内に改宗令を布いて、ことごとく法華宗にし、日泰上人(にったいしょうにん)との約束を果たしたという。
船中の出来ごとは各地によく見かける話であるが、日泰上人は円頓(えんとん)坊、心了(しんりょう)院と号し、永享四年(一四三二)壬子(みずのえね)一〇月一五日、京都白川に生れ、宝徳二年(一四五〇)庚午(かのえうま)二月一六日、一九歳にして妙満寺一〇世日遵(じゅん)上人の弟子となり、三八歳の時浜野に本行(ぎょう)寺を創立し、教化に従事した僧であるが、たまたま同船した船中で酒井定隆と知りあい、上総七里法華生成の約を結んだのである。永正(しょう)三年(一五〇六)正月一九日七五歳に寂(じゃく)。
七里法華は、土気領内山辺・長柄両郡の方七里の間、法華宗にすべて寺が改宗したので七里法華といい、また、日蓮宗中もっとも信心の堅固であったところから、他宗の人々がこれを誹(そし)って「あまり頑固なり。」という意味で七里法華とも言うと伝えられている。
「房総雑記」によると、「定隆は本行寺の開祖日泰僧を信仰して己れの領地をことごとく日蓮派のものたらしめようとした。上好む時は下これより甚しいの習い、忽ち日蓮宗に帰した土民等は、他宗の寺院をことごとく破壊して、ある物は土中に埋め、ある物は海に投じ、山辺・長柄の二郡方七里は、ことごとく法華の宗旨に成った。」とある。宗旨変えに応じなかった寺院は北は成東川、南は南白亀(なばき)川をこえて領外へ去って行ったという。