本漸寺の昼鐘(ひるがね)

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 東金城主酒井氏滅亡にともなう伝説である。酒井氏の東金城跡は城山と呼ばれて、東金市谷、八鶴湖の西、法華宗の本漸寺の裏山にある。
 戦国時代、酒井定隆の居城であり、天正一八年(一五九〇)、その子孫である酒井小太郎政辰が城主として、小田原の北条氏と手を組んでいた。豊臣秀吉は北条征伐の時、上総四八城をことごとく攻略するのであるが、東金城もこの時秀吉勢の浅野長政・木村高重に攻められ、(一説には徳川勢の本多平八郎忠勝ともいわれる。)酒井小太郎は奮戦力闘したが遂に降伏したと言われている。
 彼の怨霊(おんりょう)は、永くこの八鶴湖畔にとどまり、菩提寺(ぼだいじ)の本漸寺の午の刻(うまのこく)の鐘(昼鐘)がなると、白装束に血だらけの姿をして、大刀をふりかざした酒井小太郎が白馬にまたがって城山のどこからとなく迷い出て、(八鶴湖の湖面から現われるという説もある。)八鶴湖を一周して、去って行くという。
 その顔は、もだえるようであり、悲しむようでもあり、その姿を一度見たものは、決して一生忘れることは出来ないといわれ、寺では昼鐘をつくことを止めて、鐘の代りに太鼓をたたくようになったというが、その太鼓の音さえ、湖水に物凄い音で響くという。
 うらみの昼鐘とは、当時本漸寺の鐘は朝六時、昼一二時、夜六時の三回、時を領民に知らせる為にうちつづけていた。
 その時間以外に、この鐘がうたれるのは東金城に変事の起こった時といわれ、その時は、成東川より南、南白亀川に至る七七か村の領民は、手に手に武器を持って集まるきまりになっていた。
 ところが、豊臣勢はこのことを知っていて、丁度昼の一二時に一斉攻撃をしたため、領民の集合もなく東金城は落城をしたのだといわれている。
 後年、ある人が、本漸寺の昼鐘の伝説を聞いて、「絶対にそうしたことのある筈はない。」と、人の止めるのも聞かずに昼鐘を打ったというが、その時、鐘のつり手が折れて大音響をたてて鐘は落下し、鐘樓の土台石に当たって、大きなきれつを生じたといい伝えられている。第二次大戦前まであった鐘樓の鐘のひび割れにまつわる話であるが、その鐘も今はなく、ただこれも伝説として口伝されているに過ぎない。