田間神社のいわれ

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 田間神社の本宮は、神社裏の旧田間城址を越えた後谷(うしろやつ)という地にある。この後谷村にあった神社が山一つ越えた田間村にあることについて、こんな話も一部の人によって語り伝えられている。
 後谷にあった神社の神様は、狭い後谷、日の出のおそい後谷、日かげの陰気な後谷、日の入りの早い後谷--それは田間城址のあった山かげに後谷があたっからである--より広いたんぼの見える、あかるい田間村に出たくてたまらなかった。だから、神社にいた天狗さまと語らい合って田間へ出る相談をした。
 その結果、天狗様があばれて、田間城址や太陽のひかげをつくる木を次々に折ることにして、毎日のように松、杉などの大木を根こそぎ倒したり、折ったりした。
 そんなこととも知らぬ後谷の人々は、こうした立木の被害をなくしてほしいと神に祈った。
 その時、「田間村に出たい。」という神様の願いがわかって、山(丘陵)一つへだてた丘陵の反対側の田間村に神社を建てたという。
 それ以後、立木の損傷はなくなったといい、田間神社の祭礼には後谷から必ず榊が奉納されるといいつたえられている。
 田間神社の元宮は金谷の浅間神社であり、後谷村から田間村(当時は玉村という)へどうして遷宮されたかは詳かでない。
 郷土史研究家河口武次郎氏は「田間神社における祭事・神輿の由来記」の中で、
 
「昔の武将は、城を築くと必ず城の守護神と内寺は付物で、例えば藤原氏が春日社を源氏が八幡社を、千葉氏が妙見社を守護神としたように、酒井氏も城地内に守護神をおき、今の地に社殿を造り…」
 
と述べられているが、これを裏付ける資料はない。
 田間神社の祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神高産霊神(かみむすびのかみ)三神の合祀であり、元宮の浅間神社の祭神は、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を主神として、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、大山祇神(おおやまつみのかみ)を配祀してあるという。なお昔の田間神社は、天照皇大神と春日様と八幡様であったといわれている。これらのことについて、その実体や経緯を実証する資料は全くない。