東金市の東の方に白旗というところがある。山武郡成東町白旗であるが、ここの氏神様に八幡神社がある。
この八幡神社に伝わる物語りとして、「家康の約束」が今でも生きている。
話はこうだ。
東金御殿に来られた徳川家康は、狩の途中この八幡神社に立寄られた。
八幡神社の社前には、祭礼でもないのに白旗が高くかかげられていた。これを見た家康は、「これは何か。」と尋ねられた。土地の長(おさ)が、
「これは治承年中(一一七七-一一八〇)源頼朝公が房州から北上の折、ここに立ち寄られて、白旗を掲げて、戦勝を祈願し、源氏再興を祈られたので、以後ずっと白旗を掲げているのです。」
と答えた。
家康は土地の人々といろいろ話をしたが、最後に、
「今後この社のお祭りには、東金御殿にある竹を奉納しよう。遠慮なく御殿山の竹をとりに来るように。」
と言われ、早速供の者に命じて、見事な旗竿をおくったと言われている。
それ以後、この神社の祭礼の日、それは旧九月七日であるが、白旗の人は当番をきめて当番に当たった人は、朝早く起き、水ごりして身を清め、約七キロメートルの道を東金に来て、御殿山の竹を掘り出して再び白旗まで持ち返っている。
どこまでが真実でどこが作られた話かはわからないが、「家康との約束」として今なおその約束が守られていることは面白い。
徳川家康が、その先祖に当たる源頼信が、寛和元年(九八五)勧請(かんじょう)した社であるこの八幡神社、そして治承年間右大将源頼朝が参籠したこの八幡神社を崇敬し、寛文年中(一六六一-一六七二)社殿を加えられ、年々旗棹として竹一本を奉納したことが、既刊の郷土誌から読みとることができる。
今御殿山は東金市上宿の小川一郎氏の所有するところとなっているが、白旗の人は東金に着くと、先ず小川家に立寄り、御神酒で接待された後、竹林に入り、素性(すじょう)のよい竹を選んで、根から掘り起こし、枝もはらわずにこれを持ち帰り、各種の儀式の後にこれを社前に植えて、けがれのない老母の織った布を白旗としてこれにかかげて祭礼の日を祝っている。
参考資料
お旗織りとお竹取り行事
この行事は、源頼朝が武運長久、源氏の再興を祈願した時、白旗一旒(りゅう)を奉納せられたのを起源として始まり、毎年行なわれる神事である。
未亡人となり七年、しかも月のものがなくなって七年過ぎた婦人を適格とし、五、六人で旗を織る。旧暦九月一日朝、奉仕者は水垢離(ごり)して参殿、祭礼当番組より奉納されてある麻四百匁を神前に捧げ、一同揃って修祓、拝殿でこれを裂く。裂いた麻を三方に積む。午前十時お茶、正午昼食、午後三時お茶で終り、旧九月六日、一日の日に裂いた麻に縒(よ)りをかける。縒りかけ終了後、織機の組立をする。旧九月八日朝、「あけぼの祭」①の祭典終了後、当番組の男子は「かけめし」という朝飯を奉仕者に御馳走する。朝飯終って綾台にて綾をかけ織機に移し織り始める。この織機に上った者は織り終るまで降りる事が出来ない。織り終ったら、当番組が七日の朝「お竹取り行事」で、東金御殿山より掘り取って運んだ竹竿に吊して上げ、御竹台に納める。御祓い後、奉仕者はこれを見て「あけぼの祭」の直会(なおらい)②と同様のものを御馳走になって、全祭事を終了する。
(千葉県神社庁特殊神事編纂委員編「房総の祭事」二三六~二三七頁)
注 ①同じ白幡神社で正月一三日未明と旧九月八日の未明に行なわれる祭事である。この祭事は最初から最後まで男だけで行なう。
②「ナオリアイ」の約。神事のあとで行なわれる酒宴。