「朝日さし、夕日輝くそのもとに
あらぐわ千枚、朱千俵。」
こんな歌が田間の醍醐家に伝承的に残されている。当主の醍醐守氏は、
「この裏山、実は松之郷打腰二五番地に私の家の墓地があるのだが、この台は、打腰砦(とりで)のあったところ、すなわち平守時の久我城の南方のとりでであるが、ここには、のろし台らしい跡も見られる。このとりでのどこかに、かぶとのくわ形千枚と朱千金が、軍資金として埋められていると言い伝えられている。」
と語っている。
いつの時か、あちこちを掘って見たようだが、未だに発見されていないという。
醍醐家の系図は明かでない。しかし、先祖は北条守時で、守時は平家滅亡の折自刃して果てたが、その子益時の子孫が、足利時代に醍醐平蔵を名のり、いわゆる平蔵台(県立東金青年の家の建っているところ)の平蔵とりでを守っていた。
その子孫として醍醐家があるという。