家康は田間小松間の道路を昼夜兼行で作らせたが、ある日、その工事検分に田間の方へこられた。
出来上った新道--土地の人は今砂押県道と呼んでいる。--をやや進んで、砂押地区を過ぎた。道はまっすぐである。
なお、少しく進んだ所で家康は、お供の者に
「あの家のあるところは何というところか。」
と尋ねた。
供の者は知らなかったので、
「今尋ねてまいります。」
と御前をしりぞいて、急いでしらべたがわからない。「わかりません。」と答えるわけにも行かず、困っていたところ、一人の家来が、
「名を求められたがわからないのだから、名を求める、すなわち求名(ぐみょう)とお答えしたらいかがでしょう。」
と提案した。
早速、お供の者は、家康の前に出て、
「あの地は求名と申します。」
と答えた。家康は「そうか」といって更に道を進んだという。
こうしたことから、求名の名は生まれたと言い伝えられている。
求名--土地の人々は、グミヨウと呼んでいるが、正しくは、グ、ミョウである。
砂押は砂を押し出したところ、白旗は八幡神社に源氏の旗、白旗が常に風になびいていたところなどとも言うが、地名にまつわる伝説は各地にある。