大和村田中(東金市田中)に宝珠山法光寺という寺があって、寺宝に「名玉」がある。この玉は「産の玉」といって、妊婦によって崇敬せられ、妊婦これをおがめば安産になるといい伝えられている。
こんな話が残っている。
法光寺の住職二世日行は福俵にも寺をもっていた。ある雪の日、それは朝から物凄い大雪で、福俵から田中に来るのに大変な難渋であった。日行は、何度かころび、何度か足をとられたが、ふと見ると、自分の先に一人の婦人が子供を抱いて、たおれている。その子は嬰児(えいじ)であり、この雪中で、分娩(ぶんべん)でもしたのか、婦人は衰弱して今にも死ぬかと思われるようであった。
近づくと、婦人は言った。
「しばらく、この子をだいていて下さいませんか。」
日行は、その哀れな声をきき、赤子が冷たさにこごえ死んではと思って、これを承諾して抱いてやったが、その重いこと重いこと、まるで大石のようであり、その冷たさといったら氷か雪のかたまりのようで、大きな氷雪塊をだいているようであった。
それでも日行は我慢し、婦人を励ましていたが、ややあってその婦人は雪中に坐して、
「御上人(しょうにん)様のおかげで、わたしの苦しみもぬけました。もう大丈夫です。有難うございました。御礼とて何も出来ませんが、この玉をお布施がわりにお受けとり下さい。有難うございました。」
そう言って、嬰児をうけとり、一つの玉を僧の手にあずけたと思うと、たちまち姿が消えた。
あっけにとられた日行は、夢でも見たのかと思ったが、手にはしっかりと玉をにぎっていたという。
法光寺は境内一三六四坪(四五〇一平方メートル)で寺伝に云う。「元真言宗にして西法寺と称せしが、長享二年(一四八八)酒井定隆領内の寺院に改宗を命ぜし時、住僧其の命を奉ぜず。定隆大いに怒り一夜間を刻して堂宇を破却せしめ、明年二月僧日泰に命じて本寺を創建せしめたりと、……中略……寺に一名玉を蔵す。径凡二寸許其質水晶の如し伝へ云ふ開山日泰其高弟日行に与ふ。日行本寺の住職となり終に寺の宝物となすと。里人之を産の玉と称す。
……中略……
この玉、気象の変化により、清濁の色を呈すと云ふ。」(「山武郡郷土誌」一七三-一七四頁)