喜多村(北村)甚左衛門の蟻の塔

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 東金名物の一つに数えられているこの蟻の塔は、事実あったのであろう。
 しかし、天保末期を限りとして、民謡に残る俤(おもかげ)の伝説となってしまった。
 天保年間といえば一八三〇~一八四三年であるから、天保末期といえば一四〇年程前のことになる。
 新宿字内玉に喜多村(北村)甚左衛門という人がいた。
 ある日、倉の中からこの蟻の塔を発見したのである。倉は、廃倉として、永年使っていなかったので、その中に入ることもなかったが、たまたま中に入って見たら、高さ五尺(一メートル五〇センチ)、周囲一尺八寸(五四センチメートル)ないし三尺(九〇センチ)という蟻の塔があったという。
 蟻の塔、それは、蟻が土を運び、積みかさねて、塔のように高くしたものであった。
 この蟻の塔は珍らしいものとして、見物の人が多く、喜多村家を尋ねたという。
 
 参考資料
 
(一) 蟻塔の奇観
 『周礼』に蟻の樓を築くの辛労を以て、世人学に怠る事なき戒めとせられたるも、本邦には珍らしい事である。『本草綱目』に『蟻大小黒白青黄、其中に土を封壅(ほうよう)するあり、之を蟻柱樓(ぎちゅうろう)、蟻塚といふ。』など見える蟻塚の、本邦に於けるもの漸く高さ二尺余りであるを常とする。(北武蔵松山在の蟻塚、江戸時代に名高かった浅草万龍山長慶寺の蟻塚、共に二尺余と聞いている。)尤(もっと)も濠洲及び阿弗利加(あふりか)の熱帯地方に存するもので、その高さ一丈五六尺なるもの少くないと言ふ。殊に、濠洲フインスランド州北岸に存するといふ蟻塔林立の一大奇観などは別であらうが、本邦に於て此の東金の蟻樓などは、外国事情の審らかでなかつた当時に於て、頗る奇観であつたに違いない。
 (藤沢衛彦著「日本の伝説・上総の巻」より)
 古文書に書かれた蟻の塔(幕末安政の頃)

 

 
 (二)乍憚口上(はばかりながらこうじょう)
 各々様方益々御機嫌能く御座在らせられ、恐悦至極に存じ奉り候。随つて、上総国山辺郡東金町喜多村氏の家に、いくとせつたわる蟻の堂、九ケ年已来(いらい)蟻の通ひ休みしが、当卯の四月十一日より、数万の蟻集り、堂を作ること前々に替ることなし。世の人めでて、安静豊年蟻と祝ふ。日を増し賑ふ倉の内日に日に御入来(じゅらい)、蟻の堂ありあり御目にかけまくも忝くも日の本にふたつともなき蟻の業(わざ)、難波津(なにわず)かけて吾妻(あずま)よりたどりたどりて、九十九里やさしが浦より名の高き蟻の東金みはやしの繁れる山のかたより、日毎夜ごとに通ふ蟻、怠りもなき生業(なりわい)と、久しき栄ひ(え)を蟻ですら、やつがれつたなき筆とりて、老ゆく旅の日記につづりぬ。
   安政二(一八五五)卯の四月
       上総国山辺郡東金町
                   喜多村氏にて
                       直安述
 附記
   この文は安政二年(一八五五)四月、東金新宿の北村甚左衛門(「喜多村」とも表記されていた)の倉につくられた蟻の堂(塔)の評判を聞いてたずねてきた「直安」という人物が書き残していったものである。「直安」とはどういう人物なのか分からない。このほか「諸国順行者」と称する「閑居」という人物(これもどういう人間か不明である)が安房の小湊で蟻の堂(塔)の評判を聞いてわざわざ見に来て右の「乍憚口上」より三倍も長い文章を書きのこしたものも北村家に保存されている。これらは北村家の蟻の堂(塔)が、かなり有名になっていたことを裏書している。
 
  (三) 蟻の塔
 寛政中、東金字(あざ)新宿北村甚左衛門所有土蔵内に、蟻の塔成れり。高さ五尺余。始めは蟻の逃げ散らんことを恐れ、秘し置きしが、天保年間に至り、之を観覧せしめしに、来観する者多く、東金名物の一となりしが、明治の世に至り、此の土蔵破壊せられ、塔も遂に崩れて元の形態を失へり。
                  (「山武郡郷土誌」二九四頁)