享保年間、この地方に干ばつがあった際、鎮守の稲荷神社(大宮能売命(おおみやのめのみこと))に住民が雨乞い祈願をしたところ、この地だけの田に慈雨があったと言い伝えがある。
住民は喜びのあまり、田の中で踊り舞い、泥まみれになった。あるいは、宮田の田植えのとき、早乙女(さおとめ)が田の中で相撲をとったところ、慈雨があったとも伝えられている。
なお、早乙女は、その年に来た新妻がえらばれって、着飾田の中に引き入れられたが、後には姑(しゅうとめ)たちに代ったともいわれている。農地交換分合前には、この地区には神田として三か所あった。(北三度蒔五四五番地、二畝二九歩。古番屋五九五番地、四畝一一歩。昼食場八二九番地、八畝四歩。)
祭日は一定していないが、東、作、池田地区で交替に担当して、地区の田植え作業が大半済んだ頃に行なわれた。
当日は各戸男女一名ずつ出て、午前中に代掻(しろか)き、苗取りをし、午後田植えとなる。まず神酒をミノテグチに供えて注ぐ。早乙女は帯を荒縄に締め替えて、神酒を皆で飲んでから、田植えにかかる。
「昼食場」からはじめて、「北三度蒔」で終わる。やがて田植え作業中に早乙女が唄い出し、踊りも加わり、こづき合い、泥をなすり合い、投げ合う。ただし頭と顔へは泥をつけない。
終わると男性は神酒をいただき、一同引きあげとなる。十文字川の置上堰(おきあげぜき)に行き、泥を洗い落として解散する。
この帰途、行き合う人々に対して、「祝ってやりましょう」といいつつ苗束の根の泥を相手の額につけたりする。追いかけてつけることもある。こうすると風邪を引かないといわれた。
収穫米の収益は、地区の親睦の資金の一部とされるようになった。
どろんこ祭り